西岡利晃、ボクシングの本場、アメリカでのしあがった日本人。
2020年、井上尚弥の本格的なアメリカ進出がスタートしました。アメリカの大手プロモーター、ボブ・アラム率いるトップランクと契約し、年2回、アメリカで闘う予定です。
その第一戦は、4/25(日本時間4/26)、WBO世界バンタム級王者で3階級制覇王者、ジョンリエル・カシメロに決定。井上尚弥のキャリアが、これからボクシングの本場、ラスベガスの地でさらに花開くことが期待されます。
今から約10年前、ラスベガスのリングに立ち、強敵相手に防衛戦を勝ち、海外防衛という道を切り開いたボクサーがいます。
西岡利晃。
スピードキングと呼ばれ、キャリア終盤にモンスターレフトと名付けられます。
井上尚弥のアメリカ進出を前にして、西岡利晃のキャリアを振り返って行きたいと思います。
西岡利晃GYM、HPより
アメリカで闘った意義
それまでの日本のボクシングはというと、日本が豊かになっていくと同時に、海外での試合はどんどんと少なくなっていました。
ファイトマネーを出して王者なり挑戦者を呼び、ホームで戦うことで、有利にもなり、日本での知名度もあがり、テレビ局も視聴率をとれる、という状況だったからです。
ただ、その弊害としては、日本でしか試合をしない日本人世界王者は、世界的な知名度は低く、例えばPFPランキング(体重を同一のものと過程したランキング)等、正当な評価を受けづらかったのも事実としてあると思います。
しかし、今や日本国内においてはボクシング人気は低迷し、国内の興行がどんどん難しくなっている現状で、又は強者を求め、海外で闘う日本人は確実に増えています。
その礎を築いたのが、西岡利晃。
記録にも、記憶にも大きく残る、名王者です。
西岡利晃、期待とは裏腹の遠回り
西岡は、幼少のころからボクシングを志し、小学校5年生の頃から地元のJM加古川ボクシングジムに通いだします。
高校3年生で行ったプロデビュー戦は、初回KO。
2戦目では中村正彦(角海老宝石・のちのOPBFバンタム級王者)に4回KO負け。早くも挫折を味わいます。
その後5連勝するも、新人王戦の西軍代表決定戦にて、北島桃太郎(福岡帝拳)を相手に微妙な判定を落とします。
ジムの練習では非常に強く、「天才」と表する方もいたようですが、いざ試合になると実力を発揮できないことも度々あったようです。
この試合のあと、外国人選手を相手に地力を積み、日本王座決定戦で強打の渡辺純一(楠三好・のちの日本王者)との一戦では、1Rにダウンを奪われますが、2Rに2度のダウンを奪い返し、KO勝利。
この時の写真は印象に残っています。20年以上前でしたが、ダウンをとった西岡が笑顔を見せている写真。ちょっと見つけられなかったですが、今も脳裏に焼き付いています。
そして初防衛戦では、沖縄のハードパンチャー、仲里繁を8RTKOで退けます。
このあとノンタイトル戦、2度目の防衛戦、世界前哨戦をはさみ、初の世界挑戦にこぎつけます。2000年6月25日のことでした。
相手は、ウィラポン・ナコンルアンプロモーション(タイ)。のちに14度の防衛に成功する、バンタム級の名王者です。
ウィラポンは、1998年に辰吉をKOで破り戴冠、翌1999年にも再戦で完膚なきまでに叩きのめした、タイのボクサー。
日本国民は、あの辰吉が滅多打ちにされたのを目の当たりにしていたので、ウィラポンの強さは当時から日本中に伝わっていたことでしょう。
ウィラポン・ナコンルアン・プロモーションとの激闘。
ウィラポンとの一戦は、西岡にとって大きなターニングポイントになりました。
西岡は動き回って、打っては離れるヒットアンドアウェーの戦法。一方ウィラポンはどっしりとした構えから、左右の強打を繰り出すいつも通りのスタイル。
西岡はステップワークも良し、ハンドスピードも速い。
しかし、動き回っている分、被弾した時の見栄えは、悪い。
西岡は、これまでダウンもしていて、決して打たれ強くはない。ただ、ウィラポンもしっかりとした体躯のわりに、過去、痛烈なKO敗けも味わっている、打たれ強くはないと思われるボクサー。
西岡は、もう一歩の踏み込みが足りない感じ。西岡の一発があたっても、表情を変えないウィラポンと、ウィラポンの一発があたったら、大きくのけぞる西岡。体の強さとか、パンチの打ち方とか、地力が大きく違うように感じました。
世界初挑戦という大舞台で、もっとがむしゃらに、被弾覚悟で、という気持ちが足りないのでは?と感じた12R。
結果は、ウィラポンの判定勝利。(3-0)西岡は世界挑戦に失敗。
しかし、ウィラポンとフルラウンド闘い抜いた「善戦」は、西岡の今後に大きく期待をさせるものでした。
辰吉丈一郎を失神KOしたウィラポンを倒せるのは、スピード・キング、西岡だけだろう、と。このスピードでかき回すスタイルは、ウィラポン攻略に決して間違っていない、と私も思いました。
そして西岡は、世界再挑戦をより確実にするため、帝拳ジムへ移籍。
帝拳ジムへ移ってからの西岡は、バランスの悪さを修正し、2連勝してウィラポンへ再挑戦。2001年9月1日のことでした。
ちなみにこのときの再起2戦目、サムエル・ベントゥーラ(メキシコ)との一戦で、日本テレビの某アナウンサーがなぜかリングアナウンサーを務め、西岡の名前のコールを間違うという、かの有名なハプニングが。。。日本テレビの某アナウンサー、出たがりなのは勝手にどうぞなんですが、リングアナウンサーは本職の人に任せましょうよ。
自信満々に「トシオカ〜!ニシオカ〜!!」とコールされるも、ニシオカトシアキは1RでKO勝利。影響がなくてよかったです。
ウィラポンとの2戦目は、初戦の反省を活かし、体のバランスを保ち、また積極的にボクシングする西岡。サウスポースタイルからのワンツーのツー(左ストレート)をボディーに打ち、それをフェイントとしての3R、見事左ストレートを顔面にヒット!よろめくウィラポン!つめる西岡!
ここを凌いだウィラポンに、7Rにチャンスが訪れます。今度はウィラポンが右ストレートをヒット!そしてここぞとばかりに攻めるウィラポンに、西岡が迎え撃つ!ここから打ち勝って、挽回する西岡!!
打たれたらしっかりと打ち返し、気持ちの強さを見せつけた西岡!素晴らしい12Rで、ウィラポンとの4戦の中ではベストバウトに数えられることも多い激闘です。
結果にも、期待をしましたが三者三様のドロー。ウィラポン、ドロー防衛となります。
この激闘が評価され、西岡はWBCのランキング1位になり、指名挑戦権を得ます。
誰しも、3度目の挑戦が近い。この3度目で、ようやくウィラポンの牙城を崩してくれる、と信じていました。
しかし、ウィラポン第3戦が組まれた後、練習中に左足のアキレス腱断裂。世界戦は中止、西岡も結果的には1年以上のブランクを作るようになります。
2003年10月4日、WBCのランキング1位をキープしたままだった西岡に、3度目のチャンスが訪れます。アキレス腱断裂の影響か、この日の西岡は前回のような鋭い踏み込みが少なく、どちらかというとウィラポンのペースで試合が進みます。
この試合前までに既に両者は24ラウンズ、この試合を入れて36ラウンズという長い時間を闘ってきました。手の内はしっかりわかっているでしょう。
両者ともにビッグチャンスは生まれないままの12R。結果はまたしても三者三様のドロー。
そしてその次戦、2004年3月6日、ダイレクトリマッチでウィラポンに挑み、今度は大差判定負け。
スピードが武器とも言える西岡でしたが、アキレス腱断裂という選手生命に関わる怪我を乗り越えて、ウィラポンとフルラウンド(×2)を渡り合いました。しかし、勝利は叶わず。ウィラポンも、「もう西岡とは決着がついた」という発言もしていたと思いますし、2戦目、3戦目と肉薄した中でも4戦目の判定負けをみて、西岡は終わった、という声も少なからずあったように思います。
ようやく辿り着いた王座。
ウィラポン第4戦目のあと、階級をスーパーバンタム級に変更した西岡。
その緒戦は、当時の日本スーパーバンタム級王者、中島吉謙。世界ランカー同士のサバイバルマッチ、国内における挑戦者決定戦という意味合いの厳しいマッチメイクを勝利で飾り、再起した西岡。その後7連勝し、スーパーバンタム級での世界タイトルマッチを迎えます。
ウィラポンとの闘いから、すでに4年半が経った、2008年9月15日。
WBC世界スーパーバンタム級暫定王座決定戦。
相手はナパーポン・キャッティサクチョーチャイ(タイ)。
23歳で世界初挑戦という舞台を踏んだ西岡も、既に32歳となっていました。
ボクシングの選手生命は短く、30歳を過ぎて結果を出していない(世界タイトルを獲っていない)ボクサーは、期待もどんどんと少なくなってきます。しかし、西岡は年齢を気にすることなく、世界戦の舞台に上がれないときも努力に努力を重ね、腐ることなく、一歩一歩着実に力をつけてきました。
「悲運の天才、最後の挑戦」
西岡利晃、5度目の世界挑戦。なかなか5度も世界に挑ませてもらえるボクサーはいません。世界戦を開催するのには、チャンピオンを呼ぶにはお金も、時間もかかります。西岡は自らの拳で5度目の挑戦にこぎつけ、誰しもが「最後」とわかっていたこの挑戦を実らせます。
気合の入ったファイト。しっかりとしたナパーポン対策なのか、これまでに比べてアッパーの数が格段に多い!そのアッパーが、ナパーポンのアゴを次々と捉えます。ナパーポンは倒れないのが不思議なくらい、タフですね。。。
そして、12R戦い抜き、悲願の王座奪取!!
32歳にして、幼少の頃から夢として掲げていた世界チャンピオンに!!!
この時、両手を掲げられて男泣きする西岡ですが、ここから、まさか更に輝きを増していくなんて、誰が思ったでしょう。32歳という年齢、ここまでの苦労、全てがこの瞬間にようやく報われました。もしかすると、これで燃え尽きてしまってもおかしくなかったのではないでしょうか。
しかし、この苦労の末のタイトル奪取以降が、西岡の本当の伝説なのです。
Part2はこちら↓