信太のボクシングカフェ

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ボクシングが大好きです。大好きなボクシングをたくさんの人に見てもらいたくて、その楽しさを伝えていきたいと思います。

激動の時代を、蒸気機関車のように駆け抜ける「ピストン」堀口恒男。Part2

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 その瞬間、だれもが認める日本王者だった堀口恒男。

↓Part1はこちら。

boxingcafe.hatenablog.com

 「血の十回戦」と呼ばれたビッグファイトを制し、無敗のまま日本王者となった「ピストン」堀口恒男。その興行を成功させた全日本拳闘連盟は、翌1935年早々にフィリピンから選手を招き、東洋選手権を開催することにしました。

しかし、激闘の代償は大きく、堀口陣営(日本拳闘倶楽部)側は怪我が治らないために出場を辞退。今の感覚では当たり前だと思いますが。。。

なんとこれを問題視した全日本拳闘連盟側は、渡辺勇次郎率いる日本拳闘倶楽部(以下、日倶)を除名。ボクシング人気というよりは堀口人気に支えられている状態のボクシング界、その堀口を独占する渡辺勇次郎をボクシング界から遠ざけようという思惑があったようです。

しかし、渡辺はそれに反目、逆に「大日本拳闘連盟」を発足、全日本拳闘連盟を除名するという行動に出ます。

何が何やら、ですが、いつの時代もくだらない小競り合いはあるものです。そしてその余波を受け、堀口は日本タイトルを剥奪されてしまいます。

その後の堀口は、渡辺勇次郎麾下のもと、同門の選手や渡辺が海外から招聘したボクサーを相手に、キャリアを積んでいきます。しかし、全日本拳闘連盟と違い、日倶単体のため、これまでよりも少しペースを落とした試合数となりました。海外から何度も何度もボクサーを招聘する訳にもいかず、致し方のないことだと思います。

ピストン堀口の試合枯れ(とはいえ、1ヶ月に1,2度くらいのペース)を憂いたコーチの岡本不二は、堀口を連れて渡辺に反旗を翻します。不二拳を設立し、独立。

日本を飛び出した堀口と岡本。

渡辺勇次郎に見出された堀口恒男の裏切り(と捉えたファンもいたはずです)。このニュースが駆け巡った頃、岡本は堀口を伴って海外での強豪への挑戦を画策します。

標的は東洋フェザー級王者、ブエナ・デ・グスマン。ハワイでの一戦でした。

そのハワイへ1936年の1月16日の出発を前に、渡辺勇次郎は岡本不二と堀口恒男を破門とする声明を発表しています。現代よりもおそらく師弟の関係は絶対であったと思われる昭和初期、この決別の声明は岡本や堀口にとって大きなショックを与えた事でしょう。

そんなメンタルでハワイへと旅立った岡本と堀口。見送るものの心境も、応援するもの、軽蔑するもの、様々だったということです。

ハワイに到着した堀口は早速現地のボクサーと拳を交えます。ヤング・ギルトという選手と2戦、アール・パズモアという選手と1戦。パズモアという選手にはKO勝利を挙げましたが、ギルト相手には2戦とも引き分け。内容的には勝っていたとのことですが、当時のハワイは反日感情が高まっている時期。それでも負けないところはさすがです。

当初、堀口の「打たせて打つ」スタイルは、ハワイの人々には受け入れがたいものだったそうで、「あんなものはボクシングではない」と酷評を受けていたそうです。しかし試合を重ねるごとに現地の人々も堀口を認めざるを得なかったのか、いよいよ辿り着いたブエナ・デ・グスマン戦。

このグスマン戦、途中グスマンのローブローにより堀口がダウン。続行不可で堀口の反則勝ちとなりそうな所を、堀口は闘う意志を見せました。自らの手で勝利をもぎとらんとする堀口、最終ラウンドまで立派に闘い、見事判定勝利を収めます。

 

異国の地で東洋フェザー級王者となった堀口、日本へ凱旋帰国。

ハワイ遠征で、見事東洋フェザー級王座を勝ち取り、凱旋帰国した堀口。この帰国は大きな歓迎で迎え入れられ、出発時に裏切り者と罵った輩はどこへやら、堀口人気はまたも爆発します。どうやら「反則勝ち」を拒み、しっかりと闘い抜いて勝利した大和魂が当時の日本人たちの心を鷲掴みにしたようです。

ちなみに堀口がハワイ遠征へ旅立った約1ヶ月後、日本では二・二六事件が起こります。以降、軍国主義へとまっしぐらの日本国。

堀口帰国後、連戦連勝のさなかで日倶は全日本拳闘連盟に復帰。しかし、帝拳等の連盟脱退を経て、加盟ジムの半数を失った全日本拳闘連盟は解散という運びとなりました。

世の中は不安定、ボクシング業界も不安定。

そんな中、堀口はとうとう初黒星。東洋フェザー級王座をかけてフィリピンのジョー・イーグルと対戦し、12R判定負け。その4ヶ月後の1937年1月27日に再戦して勝利し、再度東洋フェザー級王者となります。

翌1938年は4戦して4勝、1939年は12戦して11勝1敗。1940年は14戦して13勝1敗。

そして、ここで日倶の同門であった「槍の笹崎」こと笹崎たけし(たけしは人べんに黃)。笹崎は1934年にデビューしたものの、翌年に入営(要は戦争に駆り出されました。)1937年に除隊するも、翌1938年に再応召。この再応召の際に笹崎は白内障で右目を失明したそうです。

1940年、傷病兵として帰還した笹崎は、ボクシングを再開します。右目を失明しているにも関わらず。

兵役の際のブランクをものともせず、笹崎の左右のストレートに入れ込んだ渡辺勇次郎庇護のもと、デビュー2戦目で引き分けて以降26連勝。破竹の快進撃を続ける笹崎と、大スター堀口との一戦に期待の声があがります。

不二拳、堀口恒男との間に遺恨が残る日倶・渡辺勇次郎の代理人としてなのか、ビッグマッチを待望する世論の声におされてなのか。郡司信夫氏創刊の日本初のボクシング雑誌「拳闘ガゼット」紙面にて、笹崎は堀口への挑戦状を叩きつけます。

「開かぬ城門 発展を遮断す」

そして堀口は、國民新聞の紙上にてこの挑戦を受諾

「城門は常に開かれている 解決は競技台で」

両者の闘う意志、だけでは試合が成立しないのは今の時代も同じ。この時代は、渡辺勇次郎と岡本不二の遺恨が試合開催の行く手を阻みます。

しかし世論はそんな個人感情を許さず、ついには両者は手打ち式を行い、形式上は和解。

かくしてこの一戦は、「世紀の一戦」と銘打たれ、開催されることとなりました。

1941年5月28日。

リングの王者、「ピストン」堀口恒男90戦80勝(52KO)3敗6分1無効試合

「槍のストレート」笹崎たけし28戦27勝(13KO)無敗

堀口の全盛期は既に過ぎたとも言われ、笹崎は飛ぶ鳥を落とす勢いで強豪をばったばったとなぎ倒していたこの頃、戦前の予想は笹崎の絶対有利。

弟たちに「負けっぷりを見に来い。一世一代の負けっぷりを見せてやる」と伝えたという堀口、覚悟の一戦に臨みます。

初回から両雄はフルスロットルでの打ち合い。そしてなんと1R、笹崎は堀口の連打にダウン!

2Rに入ると、今度は笹崎が猛攻。スタミナとタフネスが売りの堀口がよろめく!

堀口は手数で攻め、笹崎は左右のストレートで攻めるという展開。少なからず堀口のパンチを受ける笹崎は徐々に顔面が腫れてきたそうです。

そして勿論、まぶたのカットがクセになっている堀口は両まぶたから出血

無類のスタミナを持つ堀口のペースで打ち合った笹崎は、徐々にペースダウン!

いつのまにか堀口のペースになった5R、笹崎がまたもダウン!

そして左目が腫れ上がった笹崎は、6R開始のゴングに応じられず、渡辺勇次郎がタオルを投入したことによるTKO敗け。

右目を失明した状態で、左目まで奪われれば闘えません。

見事に昇竜の勢いの笹崎を下した堀口、改めて日本一を証明しました。そして見えてくるのは、世界王者という称号。

デビュー以来、多くの強豪を下してきた中には、今でいう世界ランカークラスもゴロゴロいます。その頃よりも円熟味を増したと思われる堀口、いよいよ世界に打って出る時がきたのかもしれません!

Part3はこちら

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