時代に翻弄された堀口の悲運。
かつて日本には、拳聖と呼ばれたボクサーがいました。「ピストン」堀口恒男。その堀口のキャリアを振り返るブログです。
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堀口恒男が生きた時代
世界王者になるには、実力とともに運も必要だと思います。
のちの時代でも、運悪く世界王者になれなかった実力者はたくさんいます。それは世界のボクシング界をみても、日本のボクシング界をみても。
ここまで、日本で1番の実力を証明し、過去、世界ランカークラスにも勝利している堀口はどうか。
1941年5月28日、日本中が待ちに待った世紀の一戦で槍の笹崎を下した堀口。
しかし同年12月7日、太平洋戦争が開戦。
ストレートは直打。フックは鈎打。アッパーは突き上げ。
英語は禁止され、ボクサーたちも次々と応召され、スポーツ興行事態も軍部が介入。
堀口は軍へ志願するも、「丙種合格」。この丙種合格の基準要旨は、「身体上極めて欠陥の多い者」とされ、基本的には戦地に赴かない(赴けない)基準での合格となっています。リングに上がれば無敵の堀口が、なぜ甲、乙、丙の3つの合格基準のうち、最下位の丙種合格なのか。
推測すると、数々の激闘でかなりの弱視になっていたか、もしくは既にパンチドランカーの症状が出ていたのか。。。
いずれにしろ、不本意ながら徴兵を免れた堀内は、「兵隊にもなれず申し訳ない」という気持ちでいたらしく、「拳闘報国」の精神で慰問も積極的にこなしていきます。
太平洋戦争の戦局は厳しさを増し、1944年には日本のボクシング界は一切の活動を停止。
1944年3月を以って、試合は中止。つまりは日本のボクシング界は事実上の解散。
ちなみに遡って4ヶ月、1943年の11月に白井義男がデビューしています。
兵隊にもなれず、拳闘での報国もできず。堀口の心中は、いかばかりか。
1945年8月15日、太平洋戦争が終結。
戦後の焼け野原の中で、拳闘、ボクシングというものはきっと忘れ去られたものだったに違いありません。闇市だけが栄えたこの時期、生きるためだけに必死の人々。
戦前富み栄えたものも行き場を失い、権力を誇った諸々は戦犯として罰せられます。
マッカーサーを主とするGHQは、様々な施策の中で、敗戦国である日本国民の活力を取り戻すため、スポーツ振興にも力を注ぎました。柔道や剣道といった日本従来の武道ではなく、自分たち(諸外国)が培ってきた「スポーツ」にです。
蘇る「ボクシング」とその熱狂
その「スポーツ」に入っていたのが、ベースボールやボクシング。
GHQは堀口恒男に目をつけ、ボクシング復興のために協力を仰いできたのです!
1945年9月中旬、はやくも横須賀に駐屯した米軍の慰問のために非公式ではありましたが、ボクシングの試合が行われることとなります。
1946年2月、堀口恒男は選手として引退し、以降は選手の育成(戦時中、ボクシング試合の中止前にデビューした弟たち)と、そのマッチメイクを主軸としていくと宣言します。
しかしその2ヶ月後に引退を撤回し、復帰。すでに33歳。昔のボクサーの峠はとうに越えているという見方が自然だったと思います。
「ピストン」堀口恒男が帰ってきたリングは、またも活況を取り戻します。今や日本ボクシング界の代名詞ともなったピストン戦法。肉を切らせて骨を断つ、打たせて打たせて打ち付けるピストン戦法は、日本人の心を打つ。
1946年7月6日、世紀の一戦の再現。槍の笹崎との再戦が決定します。
1戦目、絶対有利と言われた中、ミスを犯した笹崎。今回は慎重に闘います。堀口の攻めに対し、徹底的に距離をつくり、得意のストレートを打ち込みます。そして堀口も負けじと距離をつめ、左右のフックを繰り出します。
そして4R、なんと、ここまで不倒のピストン堀口恒男、ダウン!
誰もが信じられない、衝撃的な光景だったと思います。
頭をぶんぶんと振り、立ち上がる堀口。そして立ち上がった後は、前に出てパンチを振り回します。一歩もひるまず闘い抜いた堀口と笹崎、この一戦はドロー。
ちなみにこの後も数戦にわたりふたりのライバル対決は実現しますが、堀口の1勝2敗2分。既に全盛期を過ぎた堀口は、この後笹崎に勝利することはできませんでした。
「灯滅せんとして光を増す」
しかし、その後も堀口は連戦。この笹崎戦のあと、同じ月にあと4試合出場。その後もリングに上がり続けます。
ただただ手数を出すだけではなく、ラッシュをしかけ、相手をひるませる。その迫力にのまれた相手に対して、正確な連打を打ち続ける。それがピストン戦法。
しかしこの頃の堀口は、その正確性を欠き、ただやみくもに拳をふるい、それが相手にヒットしない。この後笹崎と闘い敗れた事は必然としても、明らかに力の落ちた堀口は、第一回新人王決定戦で優勝した選手に判定負け。連敗も経験。黒星が混んできます。
凋落の一途をたどるピストン堀口恒男とは裏腹に、まだまだ娯楽の少ない戦後、ボクシング界は活気を取り戻しつつありました。そこで、各階級にチャンピオンが必要となり、フライ級からミドル級までで王者決定戦が開催。そこで見事、堀口の弟である堀口宏がバンタム級のチャンピオンとなります。
この堀口宏は、兄ゆずりのピストン戦法を継承したボクサー。この頃からのちに、「今牛若丸」と呼ばれた日本フライ級・バンタム級王者の花田陽一郎や日本人初の世界王者、白井義男と激闘を繰り広げることになる戦後の名選手です。
堀口恒男は、この頃地方をめぐる興行に力を入れており、各地方をドサ回り。日本ボクシングの本場である首都東京では力が落ちたとみられるピストンでしたが、地方ではまだまだ絶大な人気を誇ります。
しかし、弟の宏がバンタム級王者となった翌年、ピストン堀口はなんとも無謀な一戦に臨みます。その相手は、時の日本ミドル級王者、新井正吉。
当時の(日本の)階級は、フライ級、フェザー級、ライト級、ウェルター級、ミドル級の6階級。その最も重いミドル級の王者。ボクシングが階級制のスポーツとなったのは、「体重が重い方が勝つのが容易」という自然の摂理があるためです。つまり、ミドル級王者、新井は当時の日本で1番強いボクサーといっても過言ではありません。
全盛期の堀口はフェザー級。その堀口が、ミドル級王者に挑む。
誰もが無謀と罵りました。打たれすぎて、頭がおかしくなったのか、と。
果たして命の危険すら感じられるゴングが鳴ります。
体格に優る新井が優位に試合をすすめていきます。当然です。本当に堀口がミドル級の体重を作れたのかも疑問。筋肉をつけてミドル級まで増やすなどということは、できそうにもありません。
ナチュラルなミドル級のパンチが堀口を襲い、そのウェートがのしかかります。堀口はこれしかないとばかりにピストン戦法。そう、打たせて、打たせて、打つ。
全盛期程のスピードはありません。回転力も、パワーすらもありません。
フォームはもともと綺麗とは言い難く、左を打てば右のガードを、と今は口酸っぱく教えられるボクシングの基本は堀口にはありません。
左右のスイングを振り回し、前に出る。
これはボクシングではありません。拳闘です。
「灯滅せんとして光を増す」
この日、堀口は奇跡を起こします。新井はもともとなめていて練習不足だったのか、執拗なピストン戦法に疲れを見せたのか。7R、疲れを見せた新井に、ラッシュにつぐラッシュ。燃え盛る炎のように、往年のピストン戦法が蘇り、耐えきれず倒れる王者、新井。
7R1分31秒、堀口恒男のKO勝利。
史上稀にみる奇跡を起こしたともいえるピストン堀口恒男。
その後の戦歴はほとんどが負けか引き分けという余計なものでした。
この奇跡の1戦からおよそ2年後の1950年4月22日、小山五郎に判定負けを喫すると引退。
そしてその半年後、東海道線馬入川鉄橋、線路を歩いていた堀口は、貨物列車に轢かれ、轢死。
長年の現役生活で、奇行も目立っていたというひともいます。非公式戦をあわせると、生涯400戦とか600戦を闘ったという堀口は、歴戦のダメージに苛まれていたのは確かなようです。太く短く36年の人生を生き抜いた堀口の生き様に、誰が何を言えましょうか。
ボクシングという得体の知れない外来競技を「拳闘」という武道にも近い日本人好みの形に落とし込み、日本人に教えてくれた「拳聖」。間違いなく日本ボクシングのはじまりの1人であり、ボクシングに全てを注いだ生粋のファイター。
おそらく全盛期を戦争に奪われ、それでも腐らずに前進をし続けた不撓不屈のボクサー。
生涯戦績176戦138勝(82KO)24敗14分という、今後破られる事はないであろう記録を打ち立て、きっとこれからも語り継がれるであろう不世出のボクサーの墓には、リングを型どった墓碑に「拳闘こそ我が命」と刻印されているそうです。
まるでサムライのような生き様、そして死に様。アウトボクシングの発展、ディフェンス技術の進化など、どんどん近代化していくボクシングの中で、明らかに異彩を放ったピストン戦法は、まさに戦に赴く武士のそれであったといえます。
ボクシングとして間違ってはいるけれど、現代でも堀口恒男のキャリアを振り返ってみてもなぜか熱いものがこみ上げてくるのは、強くたくましい日本人の理想像をそこに見るからなのでしょう。