信太のボクシングカフェ

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ボクシングが大好きです。大好きなボクシングをたくさんの人に見てもらいたくて、その楽しさを伝えていきたいと思います。

“アイアン”マイク・タイソンの強さと弱さと。

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“アイアン”マイク・タイソン。

53歳にして、最近元気な姿を見せてくれたタイソン。

ボクシングファンでなくとも誰もが知っている最大のボクシング・アイコンであるマイク・タイソンは、少年院での生活の中で恩師カス・ダマトと出会い、ボクシングを習います。

カスの教えを忠実に守り、20歳5ヶ月というヘビー級史上最年少でWBC世界ヘビー級タイトルを獲得、その後、統一王者に輝きます。

 

マイク・タイソン

ヘビー級史上最強とも称される短い全盛期を経て混乱の極みに至るそのキャリアには、純朴な少年が成し遂げたアメリカン・ドリームと、その少年を騙す人の悪意が、ドラマ性をもって混在しています。その激動の半生は、タイソンの幼さがもたらしたもの、とも言えますが、「獰猛で、相手に遅いかかるリング上でのファイティングマシーン」と、「内向的な少年がもてはやされて傲慢になり、身を持ち崩して反省し、再スタートをきるというドラマの主人公」という二面性を持つタイソンを、個人的にはどうやっても嫌いにはなれません。

2020年に入り、コロナ禍の中で話題を提供してくれた、未だ大人気のスーパースター、マイク・タイソンのキャリアを振り返っていきたいと思います。

ボクシングとの出会い

タイソンの父親は、2歳のときに蒸発。母はマイクと兄、姉の3人を女手ひとつで育てます。心根の優しいマイク・タイソンの幼い頃は鳩だけが友達だったそうです。その鳩をいじめっ子たちに惨殺されたのをきっかけにその凶暴性が顕現しました。ちなみに、鳩をはじめ動物はずっと好きみたいです。虎を飼っていたことも。

大切にしていた鳩を殺され、その場でいじめっ子たちを殴り倒したというタイソン。その事をきっかけに、生活は荒んでいったそうです。何度も逮捕され、12歳のときにトライオン少年院という少年院に入って、ボビー・スチュワートという教官にボクシングを教わり、そこからカス・ダマトにつながりました。

少年院から出所したあと、ダマトはタイソンにボクシングの英才教育を施します。元々カスはフロイド・パターソン、ホセ・トーレスといった名選手を育てた名伯楽。しかし、タイソンと出会う頃、既に隠居状態ではありました。

スチュワートからタイソンを紹介された時、その才能に惚れ込み、タイソンの母が1983年に亡くなってからはタイソンの法的保護者にもなりました。

カス・ダマトという名伯楽

タイソンの気持ち、感情に寄り添い、タイソンの心を丸裸にし、タイソンが自信をつけていくように誘導した、ダマト。まずダマトはタイソンの心の底を「知る」事から始めたそうです。タイソンのそれまでの振る舞いや経験が積み重なり、今のタイソンができている。その今のタイソンを知り、徹底的に話し合い、本当のタイソンに辿り着く。その本当のタイソンを、本人にもわかるように教え、諭す。

ダマトの指導は、タイソンに見事に突き刺さります。

タイソンがカス・ダマトに聞きました。

「カス、世界チャンピオンになったらシルベスター・スタローンに会える?」

ダマトはこう答えます。

「違うよ、あいつが君に会いにくるんだよ」

純朴なタイソンの質問には一つ一つ丁寧に答え、モチベーションを上げる。そして自身と向き合わせ、それに打ち勝ち、強靭なハートを身に着けさせる。ボクシング技術うんぬんよりも、タイソンにとって非常に大切なメンタルのトレーニングを、ダマトは続けていたようです。

 

理想の師弟関係といえます。

名匠カス・ダマトに心からの信頼を寄せたタイソンは、ダマトの教えをどんどんと吸収していきます。

ダマトは、技術面ではいわゆる「ピーカブースタイル」から頭を振って、懐に飛び込んでコンビネーションを打つ、というスタイル。打つパンチをナンバリングして、コンビネーションを出させる指導等、有名なものは多いです。この練習を、パターソンも、ホセ・トーレスも、おそらくやっていたのでしょう。

タイソンの輝かしい戦歴

タイソンはアマチュアボクシングで腕を磨き、1985年、18歳でプロデビュー。その年、11連勝を飾った同年、カス・ダマトは亡くなってしまいます。

タイソン崩壊の一つのきっかけになりそうな出来事ではありますが、この頃はまだダマトの門下生たちがタイソンを支え、大事には至らず、無事に世界タイトルマッチにこぎつけます。

27連勝ののち、1986年11月22日WBC世界ヘビー級王座に挑戦、王者のトレバー・バービックを2Rで破り、初戴冠。翌年にはジェームズ・スミスに勝ってWBA王座を吸収、さらにトニー・タッカーに勝利してIBF王座を吸収し、若干22歳にして世界ヘビー級統一チャンピオンとなります。

翌1988年にはその統一王座を3度防衛します。

まずはラリー・ホームズ。WBC王座を17度防衛、IBF王座を3度防衛し、一時代を築いたモハメド・アリの後継者。前々戦でライトヘビー級の絶対王者だったマイケル・スピンクスに判定で王座を奪われ、リマッチでも敗退しましたが、未だ健在。そのホームズ相手に4RKO勝利。ホームズは初めてKO負けを味わいます。

 

そして元WBA王者のトニー・タッブス。試合会場は完成したばかりの東京ドーム。そのこけら落とし興行として設定され、全世界で大人気のマイク・タイソンを見ようとして集まった観衆は50,000人以上。元王者のタッブスに対し、圧倒的な力の差を見せつけ、2RTKO。

 

この年最後は、無敗の元IBF世界王者、マイケル・スピンクス。ラリー・ホームズから奪取した王座は返上し、この時の戦績は31戦全勝(21KO)という戦績でした。このスピンクスをタイソンは1RでKOします。

 

どの選手も全く歯が立たない。このあたりまでがタイソンの全盛期。

↓1980年代は中量級の時代ではありましたが、ヘビー級はタイソンが奮起。

boxingcafe.hatenablog.com

↓ちなみに1970年代はヘビー級の時代でした。タイソン以前のヘビー級ボクシング。

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ヘビー級としては小柄ながら、スピードとパンチングパワーは他の追随を許しません。ピーカブースタイルからヘッドウィービング、ボビングを駆使し、的を絞らせない。鋭い踏み込み、強いスイングをしてもバランスを崩さない。そして、サイドステップしてからのコンビネーション。左右のダブル、トリプル。それがスピーディーに、しかも途切れなく襲いかかるように打ってくるタイソンのコンビネーションは、相手選手は反応することができず、どこからパンチが飛んでくるのかわからない、しかもその一発一発がとても強い、とんでもない脅威だったと思います。

この頃はボクシングといえばマイク・タイソン。アメリカだけでなく、世界中で既に名声を手に入れていました。

 

破滅への道

しかし、ここから道を大きく踏み外してしまったタイソン。

真の世界一となったタイソンに、ドン・キングが近づいてきます。トレーナーのケビン・ルーニー、マネージャーのビル・ケイトンを解雇、チームタイソンはバラバラとなり、自ら1人ぼっちになってしまったタイソン。

「グリズリーには近づいても、ドン・キングには近づくな」というほどダマトが嫌っていたドン・キングと契約を結び、破滅の道へ向かっていくタイソン。

誰にも信頼を寄せなくなってしまったタイソンの周りには、タイソンの作り出すビッグマネーの恩恵にあやかろうとした連中しかいなくなります。

スピンクス戦まではコンスタントに試合をこなしていたタイソンでしたが、スピンクス後、ブランクをつくります。

そのブランク後の一戦はフランク・ブルーノ戦。やや緩慢な動きながらも、ここは5Rで切って落とします。しかし、効かされた場面もあり、これまでの圧倒的な力は徐々に失われていっています。

続くカール・ウィリアムス戦は1Rで決着をつけ、形の上では健在をアピール。

そして1990年2月11日、再来日の東京ドームで、ジェームス・ダグラスを迎えます。

「世紀の番狂わせ」と言われた試合とその後

この時の来日は、前回の初来日(トニー・タッブス戦)のときと違い、謙虚さが失われていた、とジョー小泉氏が語っています。たった2年で、その人間性までもが変わってしまったようなタイソン。

あの鋭い身のこなしは既に失われ、ハードパンチはかろうじて残っているものの、動きにキレは感じられません。

ダグラスがダウンした時のロングカウント等、議論の余地はありますが、結果は10RKO負けで王座から陥落。悲しいかな、結果

その後はすぐに復帰し、またコンスタントに試合をこなしていきます。しかし、1992年から3年間はレイプの罪により服役。真実はどうなのかわかりませんが、タイソンはこれを今も否定しています。

大きなブランクをつくり1995年に復帰、復帰3戦目の1996年にWBC世界ヘビー級タイトルを獲得。同年にはWBA世界ヘビー級タイトルを吸収し、またも統一王座に輝きます。

この頃には勿論全盛期を過ぎ、初めて世界タイトルを奪った頃の動きができていない、ということは明らかではあったものの、再び世界王座に返り咲くという物凄さ。マイク・タイソンというビッグネームを求め、ヘビー級のファイターたちはこぞって対戦相手に名乗りをあげます。

1996年にイベンダー・ホリフィールドとの一戦を迎え、11RTKO負け。

再戦ではホリフィールドの耳を噛みちぎり、前代未聞の3R失格負け。本人の弁を借りると、レフェリーの死角を狙ってヘッドバットを繰り返すホリフィールドに苛立ちをつのらせ、お返しとばかりに反則で返した、とのことですが。。。

 

ホリフィールド第二戦、タイソンは明らかに苛立っていました。それがホリフィールドのクリンチややりにくさからくるものなのか、これもまた定評があるホリフィールドのダーティテクニックのものなのか。いずれにしても、タイソンはやはり成熟しきれていない子供のような感覚を持ったボクサー。

そのホリフィールド第2戦での耳噛み事件により、1年間のサスペンド。

1999年に復帰し、2002年にはレノックス・ルイスの持つ統一世界ヘビー級タイトルに挑戦もしますが、既にボクサーとしての機能は失われていました。

暴行事件、コカイン中毒、破産。

キャリア終盤のタイソンは、本当に悲惨なものでした。

幼い頃、純粋な少年は名伯楽カス・ダマトに見出され、「君は世界最年少でヘビー級チャンプになれる」「最高のボクサーだ」と暗示をかけられ、それはまさにその通りのキャリアを歩みました。

しかし、好事魔多し、自らの手で栄冠を勝ち取ったタイソンは、こころが少年のまま置き去りになっており、またそれを守る者も存在せず、又は自ら排除してしまい、急転直下、そのキャリアを終焉に向かわせます。

ボクサーはリングの上では孤独。闘うのは1人です。

しかし、ボクサーがリングの上で闘うには、周りの協力は欠かせません。

いかに信頼できるチームをつくるか、こそボクサーのリング外において重要な仕事の一つだと、世界中に教えてくれたマイク・タイソン。そして、身体的な強さだけではなく、こころの強さも同様に磨いていかなければ、成功し続ける事はできないと教えてくれたタイソン。

ラストファイトは2005年、39歳になる直前でした。

それでもまだ、精神的には成熟しきっていなかったと思います。コカイン中毒に苦しんでいたと思います。

そして2018年、大麻が合法化されたカリフォルニア州でタイソン農園を開き、現在は順調のようです。

今は信頼のおける善人を、そばに置いていられるのでしょうか。それは現時点ではわかりません。しかし、歳を重ねたせいもあるのでしょう、以前よりも穏やかになったタイソンの映像や画像を見ると、私たちを熱狂させてくれたマイク・タイソンの、これからの幸せを願わずにはおれません。

そして、53歳にして素晴らしいミット打ちを披露して、また私たちに話題を提供してくれたタイソンの「エキシビジョンの軽いスパーリング」を楽しみにして、待ちたいと思います。

 

 

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