信太のボクシングカフェ

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ボクシングが大好きです。大好きなボクシングのおもしろさを、たくさんの皆さんに伝えたくてブログを始めました。アマチュアボクシングを教えてるので、練習方法や基本なども書いていきます。

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白井義男からの道程。「伝統のフライ級」の日本人世界王者たち。

伝統のフライ級。

未だ敗戦の色が残る1952年、白井義男が初めて日本に世界フライ級タイトルをもたらしました。その日は5/19、「ボクシングの日」と認定されている日。そこからはや48年。

フライ級という歴史のある階級、108〜112ポンド(〜50.802kg)という小さな選手たちの集う階級で、日本人は闘い、敗れ、勝利してきました。

階級別でみると、日本人が獲得した世界タイトルは、フライ級が最多。

現在の日本人の体格からみると、50kgというとかなり小さい部類のため、スポーツの才能を持ちながら、野球やサッカーといったメジャースポーツでは体格面での不利を被って花開かず、体格の優劣がつきにくいボクシングを選んだという選手もいるでしょう。

だからこそ、優秀な人材も集まり、これまでの名王者を産んできたという背景もあるのだと思います。

今回のブログでは、その伝統のフライ級、日本人ボクサーの歴史を振り返って行きたいと思います。

 

白井義男の挑戦

戦前から有望なボクサーであった白井義男。太平洋戦争の勃発とともに、ボクシング興行が中止となるまでに8戦全勝(7KO)という戦績でした。しかし戦争で腰痛を発症し、ボクシング興行後の第一試合目はKO負け。その後も勝ったり負けたりを繰り返します。

しかし、カーン博士に見出された白井は、そこからカーン博士の「科学的ボクシング」を体現し、連戦連勝。日本フライ級、日本バンタム級の王座を獲得し、2階級制覇。

その後、当時の世界王者ダド・マリノ(アメリカ)とのノンタイトル戦では、初戦は判定負けも2戦目をKO勝ちして世界タイトルマッチにこぎつけます。

そして1952年5月19日、ついにはダド・マリノから世界タイトルを奪取し、日本人初の世界王者となりました。

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(出展)ダド・マリノ 対 白井義男戦 - Wikipedia

この頃は、前年(1951年)9月に締結された「サンフランシスコ講和条約」が発効される年で、その発効が1952年4月28日。つまりは日本が正式に国家としての全権を回復してから約3週間。当時の日本人にどれほどの希望を与えたことでしょう。

もともとGHQの戦略で、外来競技であるボクシングの復興は早かったそうです。(逆に、柔道や剣道等は敬遠されていたそうです)

そして、カーン博士が白井義男という埋もれそうな才能を発掘したこと(カーン博士はボクシング経験はないものの、白井のナチュラルタイミングを見初めたそうです。)、白井が異物(カーン博士の科学的ボクシングは、当時理解され難いものでした)をも取り込める器を持っていたこと、ダド・マリノのマネージャーが日系人(サム一ノ瀬)だったこと。。。等々、奇跡に奇跡を重ねた結果、舞い込んだ世界タイトル。ここから日本の、世界に誇るボクシングの歴史が始まったといっても過言ではありません。

そしてこのタイトルを4度防衛のあと、パスカル・ペレス(アルゼンチン)に奪われます。

このペレスはのちに9度の王座防衛を果たしますが、1948年に行われたロンドンオリンピックの金メダリストでもあります。今もなお、オールタイムのフライ級最強という専門家もいるほどの名王者となります。

ペレスは初防衛戦で白井とのリターンマッチを制し、その後、米倉健司、矢尾板貞雄といった日本人挑戦者たちを退けます。

 

その歴代最強といわれるペレスにも、落日の日はやってきます。

そして標的は、ポーン・キングピッチ(タイ)に変わりました。

ポーンはペレスを再戦で退け、関光徳、野口恭といった日本の誇る名ボクサーを判定で下します。そして、4度目の防衛戦で矢尾板貞雄を迎える予定でしたが、矢尾板が突如引退。(のちに、所属ジムとの確執と語っています。)その代役で登場したのが当時19歳のファイティング原田でした。

ファイティング原田と海老原博幸の初戴冠

矢尾板は白井に続いて、日本人2人目の世界王者になれると早くから嘱望されていたボクサーでした。過去、パスカル・ペレスにもノンタイトル戦で勝利していましたし、ポーン・キングピッチからタイトルを奪ってくれる期待はものすごくあったと思います。

その矢尾板が突如引退し、白羽の矢がたったのが、当時フライ級三羽烏ともてはやされ、勢いはあるもののまだ若く、実績も乏しいファイティング原田。王者ポーンも油断しての来日でした。

しかし、原田は奮起し11RKO勝利。見事、日本人2人目の世界王者となります。

その初防衛戦はタイに乗り込んでのポーンとの再戦でしたが、散々なアウェーの洗礼を受け、陥落。階級をバンタム級にあげて再起することになりました。

再戦で原田に勝利し、再度世界王者となったポーンに待っていたのは、痛烈なKO負けでした。

相手は海老原博幸、かつてファイティング原田とともにフライ級三羽烏と呼ばれ、カミソリパンチを武器にしているノックアウトパンチャー。

海老原はポーンを1RKO、世界王者に輝きます。

しかし、原田同様、初防衛戦でポーンの地元タイに乗り込み、判定負けで王座陥落。

白井、原田、海老原。日本が生んだ最初の世界チャンピオン、そして2番目が原田、3番目が海老原。このあたりに、「伝統の」フライ級と呼ばれる所以がありそうですね。

永遠のチャンプ

大場政夫はWBA王者のベルクレック・チャルバンチャイ(タイ)にアタックし、13RKOで見事王者となります。その後、国内のライバル、花形進の挑戦を退ける等、5度の防衛に成功します。

逆転KOでの名試合も多い大場の試合の中で、とりわけ伝説となった5度目の防衛戦、タイの英雄チャチャイ・チオノイ(タイ)を迎えた防衛戦での大逆転劇は、見るもの全ての心を奪ったともいえます。

記録にも記憶にも大きく残る帝拳ジム初の世界王者。ダウンを喫する事はあっても、そこから火がついたかのような連打を浴びせかけ、ついには相手を倒してしまう。その激闘が仇となったのか、チオノイ戦のわずか23日後、愛車のシボレー・コルベットとともに首都高に散ります。

大場亡きあとの決定戦で王者になったチオノイを破ってWBA世界王者になったのが花形進。アラクラン・トーレス(メキシコ)、エルビト・サラバリア(フィリピン)、大場政夫、チャチャイ・チオノイ(1戦目)と4度挑戦に失敗しましたが、5度目の挑戦で念願の世界王者に輝いた苦労人。今はその人柄を頼られ、東日本ボクシング協会長として活躍しています。

そして花形の戴冠の約2週間前、WBCの世界王者となったのが大熊正二ベツリオ・ゴンザレス(ベネズエラ)からタイトルを奪いますが、初防衛戦でミゲル・カント(メキシコ)に敗れ、無冠に。

花形も初防衛戦でサラバリアに破れ、無冠になってしまいましたが、1974年末頃のひとときだけ、WBA・WBCのフライ級王座を日本が独占した期間となりました。

 

1980年代と1990年代

大熊は1980年に同じWBC世界フライ級王座に返り咲き、今度は3度の防衛を果たします。

そして1984年には小林光二がWBC王座を獲得するも初防衛に失敗。

そしてしばらくはタイトル奪取の機会には恵まれませんでした。

1990年、レパード玉熊が李烈雨(韓国)を下しWBA王座を獲得。引き分け防衛ながら初防衛戦をクリアしますが、2度目の防衛戦で王座陥落。

WBC王座は1992年、勇利・アルバチャコフがムアンチャイ・キティカセムから奪取、抜群の安定感で9度の防衛に成功します。

2000年代

2000年代に入り、フライ級の王者となったのは、坂田健史、内藤大助、亀田興毅、亀田大毅、五十嵐俊幸、八重樫東、江藤光喜(暫定)、井岡一翔、比嘉大吾、木村翔、田中恒成。

坂田健史は4度目の挑戦でようやく感動の戴冠を果たしました。

内藤大助は一般層にも認知され、国民の期待と呼ばれました。

元オリンピアンで初の世界王座防衛という記録をつくった五十嵐俊幸。

当時PFP最強のローマン・ゴンサレス(ニカラグア)を迎え撃った八重樫東。

敵地タイで戴冠という偉業をなしとげた江藤光喜。

 

叔父の代からの悲願、3階級制覇を成し遂げた井岡一翔。

世界戦を含む15連続KO記録(日本タイ)を樹立した比嘉大吾。

元金メダリストを相手に、大番狂わせを演じてみせた木村翔。

そして、田中恒成はまだまだこれから全盛期のくる選手。

2020年代のフライ級

フライ級は日本人同士の世界戦も多く、人材の宝庫といえます。

より若い世代にも、ネクストチャンピオンはたくさんいます。

最右翼は、本来であれば既に世界王者になっていたはずの中谷潤人。

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そしてその中谷と激闘を演じ、現在は日本王者、ハードパンチが持ち味のユーリ阿久井政悟。是非岡山のジム初の世界王者を目指してもらいたいです。

他にも黒田雅之、久田哲也といったベテラン勢をはじめ、日本ランキングを見渡してみても、畑中健人、山内涼太、白石聖、桑原拓、中島憂輝といった若い世代の台頭も目立ちます。

外国選手を呼ぶのが困難となったこの時期、未来の世界チャンピオンを想像しながら、国内ライバル対決も楽しみにして過ごしたいと思います。

 

 

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