信太のボクシングカフェ

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ボクシングが大好きです。大好きなボクシングのおもしろさを、たくさんの皆さんに伝えたくてブログを始めました。アマチュアボクシングを教えてるので、練習方法や基本なども書いていきます。

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アジアのボクシング大国、フィリピンの英雄たちを想う。

今月からアメリカで再開されたトップランクのボクシング興行。

つい先日の興行では、井上尚弥vsジョンリエル・カシメロの勝者に挑戦する可能性のあったジョシュア・グリアは、フィリピンのマイク・プラニアに敗れ、世界タイトル戦線からは大きく後退してしまいました。

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アメリカ期待のグリアから、2度のダウンを奪い勝利したプラニア。番狂わせと言われたこの試合は、これまで噛ませ犬として呼ばれたフィリピン人ボクサーが、Aサイドの選手を喰ってキャリアを進展させてきた、その系譜につながる勝利でした。

日本でも、多くのフィリピン人ボクサーが噛ませ犬的な役割を担ってリングに立ち、その中の一定数が番狂わせを演じてきました。

私がボクシングを見始めた90年代に比べて、現在はその番狂わせが頻繁に起こるようになっていると感じます。以前、OPBF東洋太平洋の王座近辺で「敗けにくい」「技術のある」ボクサーとして君臨していたフィリピン人ボクサーは、「気を抜けば倒される」「気持ちの強い」ボクサーに変わってきていると思うのです。

2019年だけを見ても、ロンドン五輪銅メダリストで現OPBF東洋太平洋フェザー級王者である清水聡(大橋)が、1階級上でも世界挑戦のチャンスを模索してWBOアジア・パシフィックスーパーフェザー級王者のジョー・ノイナイに挑んだ一戦では、大方の予想を覆しノイナイがTKO勝利。初回のジャブで清水を破壊し、完璧なTKO勝利をあげました。

 

世界上位にランクされ、世界挑戦目前とみられていた小浦翼(E&Jカシアス)は、ジムの15周年記念大会にOPBF東洋太平洋ミニマム級タイトルの4度目の防衛戦に臨み、伏兵リト・ダンテにまさかの最終回TKO負け。

そしてジュンリエル・ラモナルは一度敗北している和気慎吾(FLARE山上)の調整試合に呼ばれ、一瞬の隙をついて3RTKO勝ち、その2ヶ月後には日本スーパーバンタム級王者の久我勇作(ワタナベ)を1RKO勝ちと2度の番狂わせを演じてみせました。

フィリピン人ボクサーが根底に持つ、ハングリーさや決して諦めないハート。そこには、フィリピンの英雄、マニー・パッキャオの存在が大いに関連していると思われます。

パッキャオのキャリアを見て、奮い立ち、拳ひとつでのし上がる姿を想像するフィリピン人ボクサーたちは、これからもきっとたくさんの番狂わせを起こしてくれるのでしょう。

しかしそのパッキャオは、きっと先人たちに触発されてボクシングを始めているわけで、そこには脈々と受け継がれているフィリピン人ボクサーの伝統を感じずにはおれません。

今回は、フィリピン人ボクサーのレジェンドたちを紹介していきたいと思います。

フィリピン初の世界王者

世界フライ級王者

パンチョ・ビラ 

そのフィリピン人ボクサーが世界タイトルを獲得したのは、白井義男が世界タイトルを獲得する約30年前の1923年。アジア人として初めて、世界タイトルを獲得したのはフィリピンのボクサーでした。

1919年にプロデビュー、その後チャンスを求めて1922年にアメリカへ渡りました。

マイティ・アトムといわれたハードパンチャー、初代世界フライ級王者ジミー・ワイルド(イギリス)をKOで下し、世界タイトルを獲得。

その後防衛を重ねましたが、ノンタイトル戦での敗北後、突然死。何でも親不知を抜歯して、それが完治しないまま試合に臨み、試合後、更に悪化した口内環境を正すために受けた手術中に心肺停止に陥ったとか。

23歳に若さで急死したボクサーでしたが、間違いなくアジアの英雄。当時、日本人の中でも、偉業を成し遂げたアジア人として多くの人がその名を記憶にとどめたそうです。

 

パッキャオ以前の「英雄」

世界スーパーフェザー級王者

フラッシュ・エロルデ

 マニー・パッキャオが登場するまでの間、フィリピンの英雄といえばこのエロルデのことをいいました。

当時はOPBFの前身であるOBFタイトルというものがあった時代。もともと「東洋選手権」というものは、日本とフィリピンのボクシング界が設立したもので、そこにタイが加わり、その他のアジアの国々、オセアニアが加わって現在のOPBF東洋太平洋王座となりました。

エロルデはデビュー以来、日本のリングを主戦場としてキャリアを形作った伝説のボクサー。

スピード溢れるボクサーで、基本に忠実なテクニシャンだったようです。

世界初挑戦は1956年、フェザー級王者サンディ・サドラーに敗北。(サドラーはその後交通事故により引退)その後1960年、スーパーフェザー級でハロルド・ゴメスを敵地アメリカに乗り込んでKO、2度目の挑戦を実らせて戴冠。その後その王座を10度も防衛します。この当時はまだ世界王座はたった一つ、素晴らしい偉業です。

しかも、スーパーフェザー級王座を保持しながらもライト級の王者カルロス・オルティスにも2度挑戦。(2度とも失敗)

スーパーフェザー級王座は1967年、日本の沼田義明に奪われる事になりますが、その後も闘い続け、1971年に引退しました。

フィリピンの英雄であり、日本でも多くの強豪と対戦したボクサーでした。

WBA世界スーパーフェザー級王者

ベン・ビラフロア

そしてそのエロルデの跡を継ぎ、同級の王者となったのがベン・ビラフロア。エロルデほどではありませんが柴田国明、アポロ嘉男、上原康恒、柏葉守人といった日本人ボクサーと、世界タイトルマッチで拳を交えました。

エロルデとは違い、強打を武器にした好戦的なファイターで、ホノルルを主戦場としてキャリアをスタートさせた事から、アメリカ人好みのスタイルだったようです。

フィリピン人初の2階級制覇王者

WBAバンタム級・WBCフェザー級2階級制覇王者

ルイシト・エスピノサ

 

こちらも日本人に馴染みの深いボクサーで、国際的マッチメーカー・ジョー小泉氏のマネージメントのもと、ルイシト小泉として日本のジムに所属したこともあります。

フィリピン人ボクサーとしては初めての2階級制覇王者。

スピードもパワーもセンスも申し分もない王者で、私の記憶が確かならジョー小泉氏と組んでいた頃は確か打倒ハメドを目標に掲げていたと思います。

7度防衛したフェザー級王座を陥落した後は、鳴かず飛ばずになってしまったのが残念でした。

その他にも、ジェリー・ペニャロサドディ・ボーイ・ペニャロサの兄弟、マルコム・ツニャカオも思い出深いフィリピン人世界王者です。

ジェリー・ペニャロサに川島郭志がスプリットの判定で敗けた時は非常にショックを受けましたが、その後35歳でジョニー・ゴンサレス相手に番狂わせを演じ、2階級制覇した時には本当に驚きました。

ジェリーの兄、ドディ・ボーイ・ペニャロサも同じく2階級制覇王者、引退後はノニト・ドネアのトレーナーを務めたこともありました。

どちらも勿論日本人との対決も多かったです。

そしてツニャカオはセレス小林の挑戦を受けてドロー防衛、しばらく後に長谷川穂積のスパーリングパートナーを務め、その縁で真正ジムに所属。山中慎介の持つ王座に、2階級制覇をかけて挑戦するに至りました。(失敗)

長谷川穂積が世界へかけあがるきっかけとなったのは、当時日本人キラーとして君臨していたOOPBF王者、ジェス・マーカに勝利したから、というのも思い出深いですね。次々と日本人の挑戦者を退け、世界一歩手前の壁となって立ちはだかったマーカ。世界には届きませんでしたが、我々日本のボクシングファンの心の中にしっかりと刻み込まれた名ボクサーです。
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ざっと上げてみると、上記の通り。

フィリピン人ボクサーは、以前は技術に優れ、敗けにくいスタイルのボクサーというイメージが強かったのですが、ルイシト・エスピノサ、マニー・パッキャオ以降においてはそのスピードとフィジカルの強さを活かし、攻撃的なボクサーが多くなっているように思えます。

以前、日本でキャリアを詰んで技術的に成熟し、敗けにくいボクサーが育つ、というイメージだったフィリピン人ボクサーが、今は攻撃偏重で穴があるように見えますが、実際はその攻撃の渦に飲み込まれ、アップセットをおこすというイメージに変わってきているような気もしています。(勿論一概には言えませんが。)

いずれにしろ、拳ひとつで敵地に乗り込み、自国以外のところでアップセットを起こし、名を上げていくフィリピン人ボクサーは見ていて非常に爽快です。

次回のブログでは、現役のフィリピン人ボクサーを追いかけてみたいと思います。

 

 

 

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