信太のボクシングカフェ

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ボクシングが大好きです。大好きなボクシングをたくさんの人に見てもらいたくて、その楽しさを伝えていきたいと思います。

拳狼、畑山隆則の時代。勇気と夢を与えた稀有なボクサーを回顧。Part1

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拳狼、畑山隆則。

20世紀末から21世紀はじめにかけて、日本ボクシング界は畑山隆則というヒーローに沸いていました。

スピード溢れる連打、抜群のカウンターセンスを持ち、そしてファイトスタイルはリズムを大切にしながらの前に出るコリアンスタイル。決して重いパンチを持っていたわけではないのでしょうが、キレと連打、そして前に出る強いハートで数々の素晴らしいノックアウトシーンを演出していきました。

そして、ボクシングを始める前に自身が思い描いたように、ボクシングでビッグマネーを稼ぎ出した畑山。

今回のブログでは、畑山のキャリアを振り返っていきたいと思います。

 

きっかけと早々の快進撃

まず、畑山隆則がボクシングをはじめたきっかけは、「プロスポーツ選手になってお金を稼ぐ」ということだったそうです。

持ち前の運動神経を武器に、中学時代は野球部に所属しエースで4番という漫画の主人公のようなポジション。しかし高校に入学後、先輩部員と対立したことにより退部、プロ野球選手になるという夢はすぐに断たれてしまいます。

そこで目をつけたのが個人競技であるボクシング。

行動力溢れる畑山少年はすぐに状況し、ヨネクラジムへ入門。しかし大所帯のジムでは伸びないと感じ、京浜川崎ジムへと場所を変え、そこで柳和龍トレーナーとの出会いがありました。

この後、引退までタッグを組む事になる柳トレーナーとの出会いは、畑山のボクシング人生を大きく成功へと導いたといっても過言ではありません。

大手ジムでは埋もれてしまった畑山の才能を柳トレーナーは一瞥して見抜き、「世界チャンピオンにしてやる」と声をかけたそうです。

 

そして、柳トレーナーは(おそらく自身もそうであったように)、畑山にいわゆる「コリアンスタイル」を教えていったのだと思います。

デビュー以来連戦連勝、6戦目で東日本スーパーフェザー級新人王となり、次戦で全日本新人王(MVP)となります。(7戦全勝5KO)

その後は日本人選手だけでなく韓国、フィリピン人ボクサーをKOで屠り、16戦目でOPBF東洋太平洋スーパーフェザー級王座決定戦に出場し、2RTKOでタイトル初戴冠。

東日本新人王の決勝からこの戴冠戦まで、11連続KOという昇り龍の勢いで、当然この過程で次代に世界を担うホープとしてボクシングファンに大きく認知されていく結果となりました。

このタイトルを3度防衛(2KO)のあと、メキシコ人ボクサーと世界前哨戦へ。ここを判定勝利で飾り、1997年10月、崔龍珠(韓国)の持つ世界タイトルへの挑戦が決まりました。

↓世界挑戦前までの畑山のKO集!

  1997年という時代

この頃は多くの世界タイトルマッチが日本で挙行されていました。現在と違い、世界タイトルマッチを海外で闘うという選択肢はほとんどなかった時代です。

この1997年前半には、安定王者だった川島郭志(ヨネクラ)がジェリー・ペニャロサ(フィリピン)に判定負けで王座陥落、3階級制覇を狙った井岡弘樹(グリーンツダ)が王者ホセ・ボニージャ(ベネズエラ)に完敗、そして辰吉丈一郎(大阪帝拳)も王者ダニエル・サラゴサ(メキシコ)への雪辱戦が叶わず。

その後も飯田覚士(緑)、松本好二(ヨネクラ)、葛西裕一(帝拳)、坂本博之(角海老宝石)がタイトル挑戦に失敗。

世界タイトル戦は非常に多く開催されていたものの、なかなか日本人選手が結果を残せずにいた流れで挑んだ崔龍珠戦。

世界初挑戦

おそらくこの一戦、我々日本人からしてみると「畑山優位」という予想だったように思います。センス溢れる若い日本人ボクサーが、既に日本に何度か来日し、手の内を明かして見せている韓国人王者を破る。これが既定路線のように思えました。

 

さて、試合は、序盤は畑山優勢。スピード、パンチの回転力といったところでは畑山が上。しかし4Rに畑山は左目をカット、このラウンド崔はようやくポイントを獲れたかもしれません。

とはいえ、畑山の勢いは衰えず、中盤はまさに一進一退の攻防。互角の中盤を過ぎ、7Rには畑山にチャンスが、そして11Rには崔にチャンスが訪れるという展開の中でしたが、終盤は崔が驚異的なスタミナで追い上げてきた印象です。

そして結果は無情のドロー。この試合は接近戦で打ち合う大激戦、非常におもしろい試合ではありましたが、挑戦者としては非常に悔しい1戦となりました。

当時、あまりボクシングには詳しくありませんでしたが、畑山が勝つと信じ切っていた私は愕然としてしまいました。

 

韓国の時代

当時の時代背景、1980年代、1990年代は韓国ボクシング界が隆盛を極めた時代でも有りました。張正九、柳明祐といった怪物的ボクサーが台頭、その後も多くの優秀なボクサーを輩出していました。

コリアンスタイルのボクサーとしてのイメージは、まずフィジカルが強く、打たれ強い。そしてハートが強く、スタミナが尽きない。

そんな絵に描いたような精神的、かつ肉体的な「強さ」を持っているボクサーこそ、「コリアンスタイル」を実践するボクサーに相応しいと思います。

畑山の師である柳トレーナーは、自身も1970年代に活躍したプロボクサー。そのスタイルはおそらくコリアンスタイルだったのでしょう。そのコリアンスタイルを畑山に伝授し、そのスタイルを徹底して練習していったであろう畑山。

キャリアを通じて、余計なことをせず、一本に絞って確立していった感じがします。これはトレーナーとの信頼関係がなせる業でしょう。

ただ、畑山にはコリアンスタイルを完成させるために必要な身体の強さ、顎の強さはなく、逆にコリアンファイターにはないカウンターセンスがあったがために、もしかしたら他のスタイルのボクシングの方が合っていたのでは、と、あれから20年経った今は考えられます。

 

一方で、この下がらず、前進することを至上としているスタイルこそ、畑山の気の強さによく合ったスタイルであったとも思います。更に、畑山のスタイルは純粋なコリアンスタイルとは違い、そのスピードを活かして出入りも含めたファイタースタイルでもありました。

畑山はずっと前進しているイメージもありますが、ただ前進するのではなく、退くべき時には一歩だけ退き、その後また前に出るという攻撃パターンもあり、おそらくこの事が生粋のコリアンファイター、崔を攻略する要因にもなっていったのだと思います。

あれから20年以上が経過していく中で、過去のボクサーを省みてみるのはたくさんの新たな発見があって面白いものです。

次回のブログでは、若かりし頃、私自身も熱狂したあの伝説の日本タイトルマッチ、そして世界タイトル初戴冠を振り返っていきたいと思います。

↓Part2はこちら

boxingcafe.hatenablog.com

 

 

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