かつて「音速の拳」と呼ばれたボクサーは、強豪と相まみえる中で「激闘王」と呼ばれるようになり、見る人々の勇気を奮い立たせ、そして大きな感動を呼ぶボクサーに成長していきました。
八重樫東。
武器は出入りのスピードと類稀なハンドスピードを活かしたコンビネーションブロー。そして何より最大の武器は、打たれたら必ず打ち返す負けん気の強さとどんな強敵にも挑む勇気、そして諦めない心。
9月1日、引退の発表をした八重樫のもとには、SNSを通じてボクサー、ファンからのたくさんのメッセージが届いていました。多くの人から慕われるその姿は、まさにピープルズ・チャンプ。
このブログでは、感動を呼ぶ稀有なボクサー、八重樫東のキャリアを振り返っていきたいと思います。
デビューからの期待
八重樫がボクシングを始めたのは高校からだそうです。それでも3年生でインターハイを制覇。大学の名門、拓殖大学に入り、国体でも優勝。7年のアマキャリアの中で2度、日本一に輝いているアマエリートです。
拓殖大学を卒業後、大橋ジムからプロデビュー。
プロデビュー以来3戦連続KO勝利、4戦目は判定勝利で4連勝。
5戦目でOPBF東洋太平洋ミニマム級王座決定戦に臨む事になりました。この試合の注目度は高く、もともとデビュー7戦目で世界タイトル奪取を掲げていた八重樫は、階級的にもこの試合に勝てば世界ランク入りは濃厚。
5戦目でのOPBF東洋太平洋王座獲得となれば、当時の日本最速タイ記録でした。
かくして試合は八重樫が終始ペースを握り、5RTKO勝利を飾り、見事OPBF東洋太平洋王者となりました。
八重樫は非常にセンスを感じさせるボクサーで、ステップイン、ステップバックのスピードが並外れており、打ったらもうそこにいない。なので相手は八重樫の打ち終わりに空振りします。
そしてチャンスと見た時の連打のスピードが早く、相手のガードも追いつかない。そこで滅多打ちにしてストップを呼び込む、というのが八重樫の戦い方でした。
日本人最速での世界王座を目指して
当時の日本人最速世界王座獲得は、辰吉丈一郎(大阪帝拳)と名城信男(六島)の8戦目。この記録を塗り替えるべく、7戦目で王座へ挑戦することとなった八重樫。
師匠の大橋秀行、そしてその大橋の師匠である米倉健志(当時のリングネーム)も7戦目での世界王座挑戦を経験しています。(いずれも叶わず)
たった6戦で、世界王座を狙える位置まで駆け上がってこれることだけでも考えられない事ですね。大橋は張正九(韓国)に、そして米倉はパスカル・ペレス(アルゼンチン)に、それぞれ退けられてしまいますが、いずれも後に名を堂々と残す名王者。
そして今回八重樫が挑む王者も名王者、イーグル京和(角海老宝石)。
攻防のバランスがとれた非常に素晴らしいボクシングをする王者です。生まれはタイながら、日本の角海老宝石ジムに所属し、今回は2度目のWBC世界ミニマム級王座の4度目の防衛戦。1度目の王座は、試合中に肩を骨折してしまい棄権して手放してしまったので、実質無敗の強い王者。今でも評価の高い名王者です。
ちなみにこの頃のWBA王者は新井田豊(横浜光)。イーグル、新井田ともにその安定政権から、統一戦の機運も高かったです。
2007年6月4日、世界王者イーグルへ挑む。
↓イーグルvs八重樫

この試合の前の防衛戦で、イーグルはロレンソ・トレホ(メキシコ)相手に大苦戦。3Rにダウンを奪うも、その後6Rに2度倒されて、あわや、というシーンがありました。結果的に3-0の判定(僅差)で勝利はしたものの、実力的に負けるはずがない相手に苦戦したことでこの日のイーグルはかなり慎重になっていました。
立ち上がり、やや固い八重樫、イーグルは伸びのある右ストレートを何発かヒットします。ただ、ここでは詰めず、マイペースな闘い方。
イーグルの右に対し、左ガードがやや低い八重樫は、この後もこの右を何度も喰う事になります。
そして2Rにイーグルの頭が八重樫の顎にあたるバッティング。八重樫は顎を気にしていますが、まだこの段階では骨折の度合いは低かったかもしれません。
そしてその後も5Rにバッティング、その後も八重樫は左ガードが低いこともあってイーグルの右ストレートをもらい、この試合終盤には八重樫の口は開きっぱなしとなってしまいます。
顎を骨折した状態で12R闘うという常人には理解できない精神力。レフェリーもチェック、陣営もわかっているもののストップをかけないというのは、当時も非常に危険だと思った記憶があります。
結果的には12Rの闘いが堪能できたとはいえ、振り返ってみると恐ろしい話ですね。。。
ここで証明できたのは、八重樫の精神力、そして大舞台でも全く臆すことのないその度量の大きさでした。イーグルが慎重に闘い、決めにこなかったこともあって12Rを闘い抜けたということもありますし、もし決めにきていれば、イーグル自身も警戒していた八重樫のカウンターの餌食になった可能性もゼロではありません。
しかしまだこの時は、イーグルの方が総合力が高く、そしてプロキャリアも段違い。八重樫の7戦目でのチャレンジマッチは、失敗に終わりました。
再起。そして。
イーグル戦で顎の骨折、その骨折から1年近くが経過した2008年4月30日、八重樫はリングに戻ってきました。
再起戦を判定勝利で飾ると、日本タイトルからの出直しを期し、日本タイトル挑戦権獲得トーナメントに挑みます。
その初戦で対戦したのは、帝拳ジムの辻昌建。
この辻に対し、予想は八重樫優位ながらも番狂わせの判定敗北。辻としては、元OPBF王者で世界挑戦経験者を破るという殊勲を挙げることとなりました。
ここでつまづくのは世界王者を目指している者にとっては非常に痛い黒星だったに違いありません。しかし八重樫はその敗戦から2ヶ月後、すぐにリングに戻ってきました。
1敗の重みが、他のスポーツと比べて重い、と言われるボクシング。
その1敗は、戦績として、1勝以上に猛烈に記録されてしまいます。
20勝以上のキャリアを積み上げても、たった1敗で辞めてしまうボクサーもいるのが、ボクシングという競技なのです。
八重樫は、辻戦後までで9戦7勝(5KO)2敗。
たとえ強豪相手の戦績であろうとも、この「2敗」が気にならない訳がありません。しかし、その「2敗」はその敗北を糧にして、更に上を目指していこうという気概に満ちた戦績でもあります。
辻戦からの再起後、3連勝し、王者が返上して空位となった日本ミニマム級王座決定戦へ挑みます。※この経緯はこのブログの最後に記します。
ちなみにこの3連勝の3番目が、2009年3月17日、当時デビュー戦となった後のスーパーフライ級世界王者、シーサケット・ソー・ルンビサイです。
日本王座決定戦の相手は現(2020年9月現在)OPBF東洋太平洋ライトフライ級王者、堀川謙一(SFマキ=当時)。
この試合は激しいペース争いとなりながら、僅差の判定は八重樫を支持。八重樫はOPBF王座に続いて日本王座を手に入れました。
その後3度の防衛に成功しますが、3度目の防衛戦の挑戦者は2020年のはじめにタイで世界へ挑んだ田中教仁(ドリーム=当時)。10年近く前の話ですが、まだ現役の選手がたくさんいることに驚きです。しかも堀川も田中も三迫ジム。
そして田中との防衛戦をクリアした後、八重樫は世界再挑戦が決まるのです。
2011年10月24日
WBA世界ミニマム級タイトルマッチ
ポンサワン・ポープラムック(タイ)vs八重樫東(大橋)
↓1R目からの動画です。

タイのポンサワン、「ターミネーター」と呼ばれたそのボクサーは、ムエタイで300戦以上のキャリアがあるとのこと。当時27戦23勝(16KO)3敗1分という戦績で、ミニマム級において非常に高いKO率を誇るパンチャー。そしてその3敗1分という部分は、全て世界タイトルに挑んだ試合で喫したもの。世界タイトル戦以外では敗北のない、世界のトップ・ミニマムでした。
ポンサワンは前戦で5度目の挑戦でようやくタイトルを獲得した苦労人、初防衛戦で八重樫を迎えました。
この試合はミニマム級という本場で需要の非常に少ない階級のタイトルマッチながら、その激闘ゆえ海外でも多くの識者が話題にする素晴らしい試合となりました。
オープニングから八重樫の速いステップ、ジャブがポンサワンに炸裂。1Rはポンサワン、全くついていけていませんでした。これが「音速の拳」の真骨頂。
徐々にプレッシャーを与えていくポンサワンですが、八重樫を捕まえられません。
八重樫は非常に的確で速いブローをポンサワンに次々と決めますが、ポンサワンは挑発しながら常にプレッシャーをかけ続けます。これは本当のターミネーターか。。。
中盤以降、いよいよきつくプレスをかけてくるポンサワンに対し、八重樫はなんと打ち合いという選択肢を選んだのです。5R、6Rと脚をとめて(もしくは止まってしまって)打ち合う八重樫。
「この流れは良くない」というは大橋会長の言ですが、時にボクサーはセコンドの指示や思惑から逸脱し、自ら勇気を持って戦法を選択する事が必要で、この時はそれが結果的には良い方向に出ます。
7R、明らかにポンサワンに打ち勝った八重樫!ポンサワンは初回からコツコツと被弾があり、非常に疲れている様子が見て取れます。パンチにも力がこもっていません。
そしてチャンスを迎えた8R、八重樫は試合を決めに果敢に攻めます。しかし!ここでポンサワンの右をカウンターで浴び、大きく腰を落とす八重樫。一転してピンチに。
しかしここを持ちこたえた八重樫、9R、10Rと再び攻勢に出て、見事にストップを呼び込みます。
八重樫東、悲願の王座奪取がここに成りました!
この試合は、八重樫の生涯戦績中においてもベストバウトの一つに数えられるのではないでしょうか。危険を冒して打ち合いに出た八重樫、それを見事に実らせた戴冠劇。この試合は本当に感動しました。
そしてこれに負けないくらいの感動が、この後何度も何度も待っているとは、この時の私(やおそらく皆さんも)知る由もありませんでした。
〜Part2へ続く〜
※八重樫の話から逸れてしまうので、別記します。
八重樫に勝利した後の辻昌建は、日本タイトル挑戦権獲得トーナメント決勝で堀川謙一を下し、優勝。日本王座への挑戦権を獲得しました。
しかし当時の日本王者、黒木健孝はOPBF王座獲得に伴い、日本王座を返上。
その後に組まれたのが、挑戦権を得た辻と、日本3位である金光佑治(六島)との日本ミニマム級王座決定戦でした。
大変な大打撃戦となったこの試合は、スタートから辻がペースを握りますが、徐々にペースダウン。9R終了時には辻の意識は朦朧としているようにも見えました。最終10R、金光が辻からロープダウンを奪います。再開後も金光が辻からダウンを奪い、KO勝ち。
この直後、意識不明となった辻は急性硬膜下血腫の診断で、数日後に死去。
勝利した金光も硬膜下血腫の診断により引退。(自動的に日本王座は返上。)
こうして空位となった日本王座を、辻に敗けた八重樫と堀川が争う事になりました。
ボクシングという競技は、どんなに気をつけていても怪我をしてしまう競技です。それでも、このように悲しい事故はこれ以上起こってほしくない、というのはボクシングファンの共通認識だと思います。
「激闘」は、リング禍と紙一重。レフェリーのストップは、「早すぎる」ということはない、と今一度心に置いて、これからもボクシングを観ていきたいと思った次第です。