「プロスペクト」という言葉は甘美です。
メジャーになったミュージシャンを、インディーズの頃から知ってるよ、みたいな感じ。あ、ちなみに私はミュージシャンのことをアーティストと呼ぶのが嫌いです。彼ら(ポップミュージックやロック、ジャズミュージシャン等)はミュージシャンであって、芸術家ではないと思うからです。
早速話が逸れそうになったので戻すと、そう、プロスペクト、特に「無敗プロスペクト」というのは多くのボクシングファンが大好物でしょう。
まだ底を見せていない、若きボクサーたち。そこにまだ見ぬ殿堂入りボクサーたちを探すことも、ボクシングファンの楽しみの一つ。
しかし、今に始まった事ではありませんが、「無敗プロスペクト」の全てが素晴らしいわけでもありません。
それは強敵と戦ってまだ無敗なのか、それともチャレンジせずに(もしくはさせてもらえずに)無敗なのか。
ということで今回のブログは、この「無敗」「プロスペクト」についての考察。

「無敗」という名の檻と、テオフィモ・ロペスの足跡
現在のマッチメイキングにおいて、敗北はキャリアの終わりを意味するかのように恐れられています。一度の負けでスポンサーが離れ、放送局のプライオリティが下がり、ファンからも「終わった」と見なされる。この極端な実力主義というか「結末至上主義」が、陣営を過保護にさせ、結果としてプロスペクトから「学習の機会」を奪っている部分もあるのだと思います。
しかし、かつてのスターたちは強豪との削り合いの中で、苦戦し、時に敗北し、そこから修正することで「本物」へと昇華していきました。近年において、その成功例として真っ先に名前が思い浮かぶのが、テオフィモ・ロペスです。
彼は「時期尚早」という周囲の声をよそに、わずか15戦目でリチャード・コミーに挑みました。当時、コミーはライト級屈指のハードパンチャーであり、キャリアの浅いテオフィモにとってはなかなかに危険な賭けに見えました。しかし、彼はその高い壁を衝撃的なKOで粉砕し、その勢いのまま「精密機械」ワシル・ロマチェンコという巨大な壁をも突き崩したのです。
このコミー挑戦の前に「時期尚早」と言われたのは、その前戦である中谷正義戦での苦戦というのが尾を引いた結果。しかし、この悔し涙を流すほどの大苦戦こそが、テオフィモ・ロペスを次のステージに引き上げた、と見るべきでしょう。
ムラのあるテオフィモですが、先日のシャクール戦でも、テオフィモへの期待感というのはどこかでありました。結果的には敗れはしたものの、戦前の期待感は相当なもので、「もしかしたら」を起こせる可能性を感じさせてくれていました。
あの難攻不落、現代ボクシングの化身のようなシャクールに対して期待感を抱かせたのは、やはりこれまでテオフィモ・ロペスが、コミーに、ロマに、テイラーに、期待以上のパフォーマンスを発揮してきたから、だと思います。
これは彼がこれまでのキャリアで、常にリスクを背負い、強い相手と戦うことで自らの実力を証明し続けてきた証左に他なりません。一度負けたからといって彼の価値が損なわれないのは、彼が「守られた無敗」という虚飾の中にいたのではなく、自らの拳で勝ち取った確固たる地位にいるからです。負けてもなお、その次戦が待ち望まれる。これこそが、マッチメイキングによって作られたのではない、真のスターの姿です。
幻想を売った代償、エドガー・ベルランガ
一方で、プロスペクトという虚像に飲み込まれ、その重圧に押し潰された典型が、エドガー・ベルランガではないでしょうか。 デビューから16連続1回KO勝ち。この数字は、ボクシングビジネスにおいては魔法のような宣伝文句でした。
ニューヨークのプエルトリコ・コミュニティは熱狂し、彼は次世代のスーパースターとして、実力が完成する前に神格化されてしまいました。
しかし、対戦相手のレベルが上がるにつれ、化けの皮は剥がれ始めます。判定に持ち込まれる試合が続き、自らのアイデンティティであった「1ラウンドKO」が失われたとき、ベルランガは精神的な脆さを露呈しました。アレクシス・アングロ戦で見せた「噛みつき」という暴挙は、技術的にも精神的にも追い詰められた者の悲鳴だったのかもしれません。
プロモーターが作り上げてしまった「破壊神」という商品イメージが、本人の技術的成長を完全に追い越してしまった。
ベルランガに必要なのは、地道なステップアップと、時には苦戦から学ぶ時間だったはずですが、ビジネスの論理はそれを許しませんでした。結局、カネロ・アルバレスの前に立たされたとき、彼に残っていたのは、高額な報酬と引き換えに晒される、あまりにも大きな実力差という残酷な現実だけでした。
彼は「強いボクサー」になる前に「売れる商品」として消費されてしまったのです。
ダウンを奪われて悔しがる姿、あれがパフォーマンスでなければ、彼は本気でボクシングに取り組んでいるはずです。
ただ、大事なキャリアを積む初期の時期を、あっという間に終わらせてきてしまったことは、もはや取り返しのつかないことなのかもしれません。
崩れ去った「底知れぬ強さ」、ティム・チュー
「底が見えていないから強い」と思わせるのもプロスペクトの魔力ですが、それが剥がれた時の落差は凄まじいものがあります。ティム・チューはその最たる例かもしれません。
伝説の王者、コスタヤ・チューの息子という大きな看板を背負いながらも、彼はオーストラリアという地で着実に、そして圧倒的な強さで勝ち進んできました。Sウェルター級において、誰が彼を止めるのか。そのフィジカルの強さとプレッシャーは、戦う前から相手を絶望させるに十分なものでした。
やはり我々のオールドファンにとっては期待してしまうのも仕方のない、その出自。私個人としてもチューの強さに震撼し、大きな期待をしてしまったものです。
しかし、歯車が狂うのは一瞬です。セバスチャン・フンドラ戦での不運な負傷による敗戦。あれは事故のようなものだという感覚もありましたが、続くバフラム・ムルタザリエフ戦での衝撃的なKO負けが、彼にまとわりついていた「無敵の幻想」を完全に打ち砕きました。
その怪物級の強さを持っていると思われたムルタザリエフですら、わずか1度の防衛戦のあと、王座を陥落しています。
連勝していた頃は、彼のボクシングの粗ささえも「倒すための伏線」のように好意的に解釈されていました。しかし、一度「底」が見えてしまえば、周囲の評価は冷酷なまでに一変します。「実はディフェンスに欠陥がある」「引き出しが少ない」といった批判が噴出する。これは、負けから学ぶ機会を適切に与えられず、常に「圧倒的であること」を宿命づけられ、一本道を突き進まざるを得なかったエリートプロスペクトが直面する、現代特有の罠とも言えます。一度の敗北で全てを失うようなキャリア構築は、ボクサーの寿命を著しく縮めてしまいます。
試練の門前に立つ、ザンダー・ザヤス
そして今、まさにその岐路に立とうとしているのがザンダー・ザヤスです。 16歳でトップランクと契約し、将来の世界王座を約束されたかのような英才教育を受けてきたザヤス。そのボクシングは端正で、スピード、パワー、テクニックのバランスは非常に高いレベルにあります。しかし、これまでのキャリアを振り返っても、その実力はいまだ「不確か」な領域を出ません。
直近のアバス・バラオウ戦は、ザヤスにとって一つの試金石ではありました。何せスーパーウェルター級の王座統一戦です。
この試合、ザヤスは素晴らしいパフォーマンスを見せましたが、結局そこから導き出されるものは「果たしてバラオウは本物だったのか」という疑問です。
つわものであることは間違いありませんが、果たしてバラオウが今現在のスーパーウェルター級でどのステージにいるのか。これは相対的に見ることができず、なかなかに評価が難しい相手です。
なのでこのザンダー・ザヤスは、「一体どれほどのボクサーなのか」がわからないまま統一王者となった(或いはなってしまった)王者だと思うのです。
スーパーウェルター級という、世界で最も層が厚く、化け物じみた強豪がひしめく階級において、彼はいつ「温室」を飛び出し、泥臭いサバイバルに身を投じるのか。
ザヤスが「一過性のプロスペクト」として消えていくのか、それともテオフィモ・ロペスのように、敗北のリスクを飲み込んで歴史に名を刻む「本物のスター」になるのか。それは、間もなく訪れるであろう、言い訳の効かない本当の試練、文字通りの「死線」を潜り抜けるかどうかにかかっています。
敗北を許容しないファンとプロモーターの罪
かつては、敗北してもそこから這い上がってきたボクサーの物語を、ファンは熱狂的に支持しました。負けを経験し、そこから這い上がって世界を獲ったボクサーには、無敗の選手にはない「厚み」があります。
しかし今の時代、ネット上の評価は一戦ごとに激しく揺れ動き、一度の敗北、または一度の苦戦で「期待外れ」「過大評価だった」の烙印を押しがちです。
この風潮が、プロモーターをより保守的にさせます。商品を傷つけないよう、リスクのあるマッチメイキングを避け、見栄えの良い「無敗」を維持することに血道を上げる。結果として、ボクサーは自分のレベルに合わない弱者とばかり戦い、いざ避けて通れない大きな壁に直面した際、そこを突破するだけの「修羅場を潜った経験」が足りずに崩壊してしまうのではないでしょうか。
そうなると、プロスペクトたちのキャリアを積む道程を見る必要は全くなく、籠の中で育てられ、そこから出されるタイミングで見ればファンは十分に事足りてしまいます。
戦績表の「0」を守るために、勝てる相手とだけ戦い、キャリアの賞味期限を浪費する。それはボクサーを育成しているのではなく、単にブランドを延命させているに過ぎません。
我々ファンが本当に評価し、リスペクトを払うべきは、傷一つない綺麗な戦績の並びであってはなりません。
たとえ「0」を失っても、強敵を求めてリングに上がり、顔を腫らし、膝を突き、それでもなお立ち上がって牙を剥く。その「傷跡」や「泥臭さ」こそが、そのボクサーが歩んできた道であり、真実を物語っているのだと思います。
「0」を失った瞬間から、本当のキャリアが始まる。 そう思わせてくれるボクサーこそが、幻想を打ち砕き、我々の心を震わせる本物の「ボクサー」として、歴史にその名を残すのではないでしょうか。
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