信太のボクシングカフェ

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ボクシングが大好きです。大好きなボクシングのおもしろさを、たくさんの皆さんに伝えたくてブログを始めました。アマチュアボクシングを教えてるので、練習方法や基本なども書いていきます。

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浜田剛史の精神力に、コロナに打ち勝つ道を見つけた。〜Part1〜

浜田剛史、その強さとは。

浜田剛史、生涯戦績24戦21勝(19KO)2敗1無効試合。

ほとんどの相手をKOで屠ってきたその豪打は、自らをも苦しめた諸刃の剣。

何度も拳の怪我に泣かされ、膝にも爆弾を抱えていた浜田。ベストコンディションで上がった試合は少ないともいえます。辛く、長いブランクを経て夢だった世界王者となった浜田でしたが、佐瀬稔氏の書籍の中で「運が良かった」と語っています。

それは、浜田の持つ哲学がそのように思わせた、と言っても過言ではありません。

哲学というと難しく聞こえますが、要はものごとの見方、考え方、捉え方です。

度重なる怪我により、大きなブランクをつくりもしましたし、いつだって満身創痍でリングに上がりました。それでも、言い訳の一つもせず、全ては自分自身の問題、と言わんばかりに日々鍛え、遂には見事に目標を叶えます。その浜田の決して折れない精神力、そして自らを律したその生き方にこそ、現在のコロナ禍を生きる術があるのだと思います。

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小さい頃から、夢はプロの世界チャンピオン。 

浜田剛史がプロデビューしたのは、1979年5月21日の事でした。当時は本名の浜田剛という名前でリングに上がっています。

ボクシングを始めたのは兄の影響で、中学時代から沖縄帝拳ジムに通いだします。高校はボクシングに専念できるという理由で沖縄水産に入学。兄・浜田雄二が既に沖縄のアマチュアボクシング界では有名だったため、注目を集めます。左ストレート一発狙い、ポイントアウトではなくKOを狙うというアマチュアらしからぬスタイル。既にプロジムで教わっていた浜田は、なかなかアマチュアのルールになじめず、よく反則での減点をとられ、キャリア初期はそれが原因で敗北を喫したことも多かったようです。

それでも学校の部活を終えたあと、沖縄帝拳ジムに寄って練習。

当時からストイックさを発揮し、負ける度に弱点を修正し、3年生のときにインターハイのフェザー級で優勝。

高校時代のアマチュア・ボクシングの戦績は43戦37勝(28KO・RSC)6敗。もちろん、強豪大学からの誘いもありましたが、迷わずプロを選択。

ボクシングをやるために選んだ水産高校を卒業し、いよいよプロの世界へ打って出る浜田。ジムはもちろん、帝拳ジム。

 

挫けることを知らない強靭なこころ

プロデビュー戦を2RKO、続く第二戦を1RKO。ジュニアライト級(現スーパーフェザー級)での試合でした。

そして3戦目、今井房男(三好)に判定敗け。帝拳のホープ、浜田にとっては番狂わせとも言っていい敗北でした。新人王トーナメント戦として行われたこの一戦では、浜田は狙いすぎ、ガードも甘く、大振り。そのハードパンチに見合った、「一発あたれば」という戦法で臨み、それが空転。

これは意識しなければ出てしまう癖のようなもので、アマチュア時代も同じ理由で苦汁をなめています。あのとき治したはずのものが、ここに来て再発。一発目をはずしてインサイドに入り、休まず打ってくる相手に焦ってしまい、より一発を狙って大振りになってしまう。高校時代、兄のライバルだった下地晃彦(興南高校)と対戦した2戦目に喫した敗北と同様のものだったようです。(下地とは2勝1敗)

のちにこの時のことを「いい時期にいい勉強ができました。これが世界タイトルマッチだったら取り返しがつかないところだった」と語った浜田。ここから更に彼のストイックさはエスカレートしていきます。

一発当たれば、というボクシングだったのが、どう当てるか。「パンチは当たるのではなく、当てるのだ」。

敗戦から4ヶ月後、復帰した浜田はこの年(1980年)を5戦して全KO勝ち。そのうち3つが1RKO。この快進撃を目の当たりにし、対戦相手から敬遠される選手になっていきます。

翌1981年2月10日、福井武志戦。キックボクサーあがりのタフな相手のがんばりもあり、8RでのKO勝利。ここまで9戦8勝(全KO)1敗、しかし、この頃から拳の痛みに悩まされるようになります。

その後、5月にタイの選手を2RでKO。国内で対戦相手が見つからない浜田は、7月にフィリピンの選手との対戦が決定します。

相変わらず痛みの続く左を出し続け、4Rにはより強い激痛が左拳を突きぬけたといいます。ほとんど右一本で闘い、最終的にはパンチによるカットでストップ、9RTKO勝利。

試合が終わると毎回のように腫れ上がる左拳、しかし浜田は控室でもそのことには一切触れません。彼はその人生において、「言い訳」や「泣き言」と取られるようなことは一切公言しない、と心に決めているかのようです。

 

忍び寄る影

この試合のあと、病院での診察結果は左拳、人差し指の中手骨の骨折。手の甲にあたる部分です。左を打った際のインパクトが強すぎての骨折でした。

強打者にとって避けては通れない拳の怪我。おそらく最初の怪我は、さほど深刻には考えなかったでしょう。

左手をギプスで固定し、1週間後に完治。そして早速練習を再開する浜田。

しかし同年9月、またも同じ部位を激しい痛みが襲います。

コミッションドクターを介し、手の骨折では第一人者と言われる医師を紹介してもらった浜田。そこで明らかになったのは、前回骨折した際の処置が原因で、中手骨が変形してしまっていた、という事でした。

この変形を治さないことには、今後何度も再発するおそれがあるため、手術で除去。腰の骨を移植、金属プレートを埋め込むという大手術。中手骨はパンチを打った際の衝撃を支える骨なので、そこのバランスが悪ければその衝撃が一箇所に集中してしまい、また骨がもたない。充分な期間を過ごして完治という診断が出ます。

そして、1982年9月に再起戦が組まれます。

その再起戦にあわせ、スパーリングパートナーを求めて韓国に武者修行。

完治したという診断でしたが、左拳を振るうと出てくる痛み。ひとり武者修行に出た浜田は、誰にもそのことを言わず、修行を完遂。そして帰国後、病院で診察を受けます。

そこでまたも同じ箇所に亀裂が入っていることがわかり、再起戦はキャンセル。

既に最後の試合から1年が経過していました。

その後また治療を続け、完治の診察。

翌1983年1月、練習中のスパーリングで痛みが再発し、予定されていた再起戦をキャンセル。

拳に痛みを抱き、病院に入院。退院後は通院。そして完治と出ると、おそるおそる左を使ってみる。すると、激痛。この繰り返し。

既に同期だったボクサーは日本チャンピオンになっていました。本人としては、焦りもあった事でしょう。

浜田をスカウトした本田会長も、長野マネージャーも浜田のことはほったらかし。慰めのことばをかけることもしなかった、と言います。

自尊心が強く、自らで進む道を決められる浜田にとって、そのような慰めや同情が不要ということをよく分かってのことだったといいます。

必要な場所(帝拳ジムや医者)以外、マスコミや友人などには一切拳の怪我を自分からは伝えませんでした。日中は仕事をし、夕方になると仕事終わりのボクサーでごったがえす帝拳ジム。その合宿所で暮らす浜田。先輩や同期、後輩までもが「あした」に希望をもってミットやサンドバッグを叩く。しかしそれすら、今の浜田にはできない。息抜きの仕方も知らない浜田にとって、ボクシングを奪われたこの時期は、本当にやりきれない時期だったと思います。

 

おそらく全盛期の伸び盛りにあって、試合ができない。

1983年3月、浜田は周りの医師も驚くような再手術を依頼します。

自身の左拳に埋め込んであるプレートを外す手術。そのプレートに頼らず、自身の力でのみ治してみせるという気概。取り返しのつかないことになるかもしれない、という医師のアドバイスを跳ね除けた再手術。これまでの通り再手術も成功、浜田は拳にいいといわれることはなんでも試しました。1時間、拳を酢につけ込む、という事までも。

そして1983年8月5日、いよいよ再起戦。右でコントロールし、左はボディのみの約束でしたが、そうもいかない。この年は2ヶ月後に再起2戦目を行い、どちらも早いラウンド(2R、1R)でKO。ちなみにこの再起から、リングネームを「浜田剛史」としました。

ラウンドが少なかったからなのか、まだ彼の左拳は(骨折はしなかった、という意味で)無事。しかし、試合のたびに出てくる鈍痛と、腫れ。この左拳が完全に壊れてしまう前になんとか世界に辿り着きたい、と焦る浜田。

明けて1984年3月1日、ホセ・レセンデス(メキシコ)とロサンゼルスで対戦。渾身のボディブローで試合を決めるも、ローブローのレフェリングで失格敗け。その後、しっかりとボディに入っていた事が確認されると、無効試合に。ここでもまた拳を痛めます。

次戦もロサンゼルスで、4月にグレッグ・トリブレット(アメリカ)というホープを3RでKO。7月にロミー・クナナン(フィリピン)1Rで、9月には元WBA世界ライト級王者、クロード・ノエル(トリニダードトバゴ)を4RでKOして13連続KOという日本新記録を樹立。

勢いに乗る浜田、いよいよ初戴冠。しかし。

そして12月には日本ライト級王者友成光(新日本木村)に挑みます。この友成は、一つ下の階級、ジュニアライト級(現スーパーフェザー級)で日本王者になった後、WBA世界ジュニアライト級王座にチャレンジ。カットによる不運なTKO負けを喫しています。その後、出直しを誓い階級をライト級に上げ、浜田の帝拳ジムの同期であるライト級日本王者、尾崎富士雄からタイトルを奪取して二度目の防衛戦。キャリアは30戦以上のベテラン選手でした。

この世界挑戦経験のある友成を攻めに攻め、7RTKOで日本王座を獲得するとともに記録を14連続に伸ばします。見事なKOで勝利するも、ニコリともせず、勝利者インタビューでも「世界しか見ていない」と答える浜田。まだ夢の途中、両手をあげて喜んだりはしません。

友成光vs浜田剛史

次戦でタイ選手をKOし、15連続KOの記録を引っ提げて、OPBF東洋太平洋ライト級王者ジョンジョン・パクインに挑戦する事になります。

ここまでの戦績は19戦17勝(全KO)1敗1無効試合。2年ものブランクを克服し、連続KO記録を更新中の浜田。周りから見れば拳も治り順風満帆な状態の日本王者。

しかし、ボクサー生命を脅かすまでの拳の怪我に何度も泣かされ、それでも自分の力を信じ、可能性を信じ、拳を振るい続けました。左拳が使えなくなった時、右リードの練習をひたすらやった結果、右拳の関節も変形していたそうです。

出口の見えない暗闇の中、自分が今、できることをコツコツとこなすその姿こそ、現在、未知のウィルスに蹂躙されている我々が見習うべき所だと思います。

しかも、現在は浜田のように自分だけが辛い状況ではない。まわり皆が辛いのです。この辛い状況を、浜田は愚痴、文句、不平、不満をひとことも言わず、たった一人で闘い、切り抜けました。私達は同じ思いを共有できるたくさんの人が世界中にいて、浜田ほどの精神的な追い込まれ方をしていないはずなのです。

浜田のキャリアを振り返っていると、我々も自粛が辛いとは言っていられません。今、我々ができることはできるだけ人との接触を減らすこと。

そして、ここから浜田のキャリアは壮絶を極め、終盤を迎えます。

Part2はこちら↓

boxingcafe.hatenablog.com

 

 

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