信太のボクシングカフェ

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ボクシングが大好きです。大好きなボクシングをたくさんの人に見てもらいたくて、その楽しさを伝えていきたいと思います。

一意専心。浜田剛史の物語が訴える、今の私たちに必要なもの〜Part2〜

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夢の世界王座へ一直線。

浜田剛史、生涯戦績24戦21勝(19KO)2敗1無効試合。

空前絶後のハードパンチャーは、拳の怪我で2年間ものブランクをつくったにもかかわらず、それを乗り越え見事日本チャンピオンに。

初タイトルを手中にした浜田には、明るい未来が待っているはずでした。

このまま一直線で世界へ辿り着く、そんな期待はもろくも崩れ去り、一筋縄ではいかない苦難がまた、浜田を襲います。

浜田剛史の壮絶な現役キャリアを振り返るブログ、Part2です。

Part1はこちら↓

boxingcafe.hatenablog.com

 

KO奪取で日本タイトルを獲得した浜田は、その後の1戦をまたもKOで勝利し、世界へのステップアップ、OPBF東洋太平洋ライト級王座への挑戦が決まります。

世界戦まであと一歩。15連続KOと波に乗る浜田剛史。

しかしここでもまたも試練が襲います。その試合の1ヶ月前、今度は右膝の半月板を損傷。以前から左拳だけではなく、右膝にも違和感を感じていたそうです。その上、過剰なほど肉体を痛めつける練習をしている浜田、オーバーワークのなれの果てでした。

利き腕である左拳、そして攻撃時に体重を支える右膝。どちらもハードパンチが売りの浜田にとっては、最も重要な部位でした。これでは強いパンチが打てません。

休養を言い渡された浜田は2週間、練習をせず「安静にして」過ごします。体を動かすことをしない代わりに、この若者は体重を落とす事に専念。2週間後、療養期間を過ぎた浜田は、すでにライト級の規定ウェイトに達していたそうです。本来であれば減量がピークにさしかかる2週間前に、もう規定体重に達している。しかも練習もしないで。どれほど無理をしたのか。。。

練習をしないから、食べなくてもいい。そう考えて食事をろくにとらなかったのかもしれませんが、いずれにしろ常軌を逸しています。

そして迎えたOPBF東洋太平洋ライト級タイトルマッチ、王者のジョンジョン・パクインは浜田の強打を恐れ、ディフェンス重視。ガードを固める相手に、攻めあぐねる浜田。サウスポーのファイターである浜田の右膝は、踏み込んだ時に体重をしっかり受け止める役目があります。それが機能しない。そして更に、序盤に左ストレートが相手の額に当たり、もう何度目かの激痛に見舞われます。

なんとか勝利した浜田でしたが、連続KOは15でストップ。

左拳に加え、右膝の故障を抱えます。

なぜ、これほどまでに故障をしながらも、闘い続けるのか。

浜田は、試合に臨むとき常に「これが最後、もしくはあと1試合で終わりかもしれない」という正に背水の陣を背負って闘っていたのです。オーバーワークであることも自覚し、それでも尚、勝利への執念を燃やし尽くす。浜田が豪快なKOをしても、にこりともしないのはここに理由があったと思われます。生き残れた事への安堵感、それでもまだ次があるかわからない。

 

浜田剛史の「幸運」

しかし、浜田は自分のことを「幸運だ」と語ります。

今回の試合はなんとか右膝は間に合った。その前は腰を痛めたが、試合キャンセルまではいかなかった。拳を何度も怪我をしているが、結果、小さい頃からの夢だった世界王者になれた、と。

この王座の初防衛戦は1RKOでインドネシアのスワルノ・ペリコを仕留めます。そして、いよいよ世界タイトルマッチへ。

帝拳陣営はWBC世界ライト級、WBAライト級の王者への挑戦を画策しますが、王者側の都合で流れ、果てはWBC世界ジュニアウェルター級(現スーパーライト級)王者への挑戦も流れてしまいます。

それでも粘り強く交渉を続けた結果、WBA世界ジュニアウェルター級王者、ウバルド・サッコ(アルゼンチン)が1986年3月15日に行われるタイトルマッチで、パトリツィオ・オリバ(イタリア)の挑戦を退けると、タイトル戦のチャンスが回ってくる算段だったようです。

 しかし、サッコが防衛に失敗。新王者となったオリバは、与し易しと様々なところからオファーが殺到、ファイトマネーが釣り上げられ、帝拳陣営は交渉を断念。

それではとWBC世界ジュニアウェルター級王座に狙いを変更し、果ては5月5日に開催される王者ロニー・スミス(アメリカ)対レネ・アルレドンド(メキシコ)の勝者に挑戦するという水面下の交渉を経て、ようやく世界タイトルマッチが実現することになりました。

転々とした世界タイトルマッチの相手は、当時39戦37勝(35KO)2敗という驚異的なKO率を誇るレネ・アルレドンドへの挑戦に決定。今まで二転三転した標的の中で、間違いなく最強の王者への挑戦が、1986年7月24日という日程で決まりました。

その3ヶ月前の4月、浜田は悪化していた右膝にメスを入れています。ボクサーにとって、拳と同じくらい、いやそれ以上に脚は重要なものです。私も「手を出す以上に脚を動かせ。脚を動かす以上に頭を使え。」と教わった経験がありますが、拳は当然重要ながら、ただやみくもに手を出すだけでは当たりません。パンチを当てるには、ポジショニングこそ重要です。こちらから攻める場合も、カウンターで迎え打つ場合も。

膝を切開し、関節鏡を入れます。当初、検査だけの予定でしたがその場で浜田が希望したことで当初予定になかった半月板の損傷を除去する手術。途中で麻酔は切れた状態で骨を削る手術。それでも我慢の男は声もあげず、その精神力のみで耐え忍びます。

麻酔なしの大手術に持ち前の精神力で耐え抜いた浜田剛史。

それでも尚、膝の痛みは消えない。なんと残酷なのでしょう。。。

そして6月。体が言うことをきかなくなります。

ミネラルウォーターの瓶の栓を閉められない。ジムへの階段を登れない。

スパーリングをやる。打ち込まれる。

練習後、シャワーを浴びようと立ち上がろうとする。

。。。立てない。。。

理不尽に次々と襲いかかる、リング外の敵。勿論その敵はまったくこちらの都合を考えてはくれない。ここで大切なのは、それでも前を向き、自分自身に気持ちで負けないこと。たとえ何があろうとも、目標を完遂してみせるという意志の強さ。

 

浜田剛史、この時25歳。21戦19勝(18KO)1敗1無効試合。誰よりも自分を追い詰める練習量、それゆえにブランクをつくり、およそ常人では耐えきれないような痛みにも耐えてきました。いつ爆発するともわからない爆弾を拳と膝にかかえ、こころもすり減らしてきました。

浜田がどんなに我慢強く、不調をさとられまいとポーカーフェイスを取り繕っても、さすがに気取られ、休養を余儀なくされます。普段からオーバーワークの浜田にとって、おそらく辛かったであろう一ヶ月間。世界タイトルを目の前にして、本人からすると満足のいく練習ができていません。

しかし、この休養が奏効したのか、それとも世界タイトルに挑む気持ちが肉体を凌駕したのか。

試合数日前には桑田トレーナーの受けるミットの感触は、幸運にも、完璧な浜田に戻ったそうです。

世界王座への挑戦

そして7月24日、両国国技館。

たった3分間の、それでいてこれまでの人生を集約したような劇的なドラマ。 

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開始早々前に出て、左ストレートを振るう浜田。

低い姿勢からアルレドンドの懐に入り、乱打戦に持ち込もうとします。

相手は長身のカウンターパンチャー、それもとびきりのハードパンチャー。

くっついての接近戦に活路を見出し、勇気をもって実行に移します。

離れた距離でボクシングをされると敵わない。170cmの浜田と180cmのアルレドンドでは、およそ距離を詰めなければ浜田のパンチは当たりません。とにかく頭からでもつっこみ、超接近戦を試みる浜田。

警戒していた左フックはそれでも浜田にヒット、「脳天まで響いた」という左フックをヒットされた浜田は、ロープに突進していきます。「バランスを崩した」ということではなく、「効いていた」そうです。

長引けばまずいのは両者とも。最終ラウンドまでは持たないだろう、そう考えた浜田は短期決戦をしかけ、更に圧力を強めます。

ラウンド終盤、接近戦から一瞬、距離を置く浜田。そこはアルレドンドの距離、チャンスとばかりに右のフックを打ち込もうとするアルレドンド。この外側からのアルレドンドの右フック、よりも先に、浜田のコンパクトな右フックがアルレドンドにヒット。

利き腕の左が使えなかった間、サンドバッグを、ミットを打ち続けた右。

拳が変形するほど叩き続けた、右。

この右フックは試合を決める右フックとなりました。

ロープにつかまるアルレドンドに、浜田の追撃弾!

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とうとうアルレドンドはダウン。

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レフェリーが数えるテンカウント。

記録は1ラウンド、3分9秒でのKO勝ち。


舞い上がる座布団、なだれこむセコンド陣、熱狂する観客、前チャンピオンを囲むアルレドンド陣営。その喧騒をよそに、いつまでも無表情な浜田剛史の時間だけが止まって見えます。

世界チャンピオンになれた安堵感なのか、それともまた次の戦いに向けての準備をしているのか。全く気を抜かないサムライは、何を思う。

 

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勝利後、テレビの解説席へ。

「結果は1RKOでしたが、力としては紙一重か、もしくは相手の方が上。」と語った謙虚な王者は、左を思い切り打てた事について「運が良かったです」

その後、ロニー・シールズ(アメリカ)を相手に初防衛戦を行い、判定勝利。

そしてレネ・アルレドンドとの再戦で6RTKO負け、タイトルを失います。

その後は再起を目指すも、右膝の状態が芳しくないこともあり、断念して潔く引退。

 

一意専心

太く短い8年間の現役生活を常に全速力で走りきった、浜田剛史。ピンチを迎えたのは拳の怪我でつくった2年のブランクだけではなく、その後(1981年以降)の6年間は常に背水の陣で望んでいました。

出口の見えない暗闇の中、走る方向もわからず、それでもガムシャラに走り抜きました。

我々も今、出口は見えません。しかし、走る方向はわかります。そして、同じ状況の仲間が、想いを共有できる仲間がたくさんいます。

止まない雨はない、といいます。明けない夜はない、といいます。

「不幸」にも思える時期が出口が見えないほどの期間続きましたが、自身が「幸運」と思える瞬間を、自分ができることを尽くして忍耐強く待った浜田。浜田剛史のボクシング人生は、辛い時期を乗り越え、一意専心、栄光を勝ち取るドラマチックな物語。

「一意専心」とは、他の事は全く考えず、その事だけに心を集中すること。

自身の可能性を信じ、自身の幸運を信じ、ただひたすらに目標に向かって日々の努力を怠らなかった事で掴み取った「幸運」。今現在、緊急事態宣言下の日本列島、そして世界にとって、自分ができること、一言でいうと「自粛活動」を、コロナが収束するその日が来るまで、泣き言を言わず、腐らず、自分を律して続けていくことが大切だと思います。

元WBC世界ジュニアウェルター級チャンピオン、浜田剛史のように。

レネ・アルレドンドvs浜田剛史↓

 

 

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