日本には、かつて拳聖と呼ばれた男がいた。
蒸気機関車のような突進、止まらない連打、連打。その止まらない連打は、「ピストン」戦法とも呼ばれ、防御など一切せずにノーガードで立ち向かい、打たせて、打たせて、打たせて、そしてついには撃ちつける。
ロープにつめてのラッシュがはじまるや、観客は「わっしょい、わっしょい」と大声をあげて応援する。
拳闘は武道であると宣し、テクニックよりも精神力、体力に重きをおいての鍛錬。
生涯戦績176戦138勝(82KO)24敗14分。デビューから5つの引き分けをはさみ47連勝という驚異的な記録。
※ピストン堀口道場のHPより。戦前・戦後の記録のため不明確です。
戦前、戦時中、戦後の日本を大熱狂させた「ピストン」堀口恒男。
「剣聖」と呼ばれた宮本武蔵をもじって、「拳聖」と呼ばれた男。
※Wikipediaより
当時、敗戦という危機を乗り越えた日本ボクシング界にあって、その中核を担った拳闘家。今、未曾有のウイルスショックに瀕している我々も、かのピストン堀口の信念を振り返り、くじけずに生きたいものです。
日本ボクシングの父、渡辺勇次郎との出会い
渡辺勇次郎(1889-1956)という人物がいます。語学留学のために渡米し、ボクシングと出会い、のめり込みます。アメリカのボクシングジムで鍛錬し、プロデビュー。連戦連勝してカリフォルニア州のライト級王者に挑み、惜敗。その後同王者に雪辱し、カリフォルニア州の王者となりました。
1921年に帰国の後、日本初のボクシングジム(日本拳闘倶楽部)を設立、ここから日本ボクシングの歴史が始まりました。
その渡辺勇次郎が栃木県真岡市にて模範試合を行った際、飛び入りで参加したのが堀口恒男。堂々とプロボクサーと渡り合った堀口を見初めた渡辺は、堀口をボクシングに誘います。
堀口は早稲田大学に入学と同時に上京、日本拳闘倶楽部(=日倶)に入門し、そのキャリアをスタートすることになります。
ちなみに渡辺は後年、全日本アマチュア拳闘連盟(日本ボクシング連盟=JABFの前身)、及び全日本プロフェッショナル拳闘協会(日本プロボクシング協会=JPBA)の設立に関与しています。
「ピストン」堀口、キャリア初期
堀口は入門後、すぐに将来を嘱望され、元オリンピック選手である岡本不二の指導を受けることとなります。
今でいうボクシングセンスは皆無だったかもしれません。いくら教わってもディフェンスは上達しなかったとも。打たれても尚前進するタフネス、サンドバッグやミットを絶え間なくうち続けられるスタミナ。そのタフネスとスタミナのみを武器に闘っていく事になった堀口。
デビューから間もなく、堀口に大きなチャンスが訪れます。
1933年、世界的に強豪といわれるボクサーがフランスから来日し、日仏対抗戦を開催されることになります。
その日本代表を決めるトーナメントに出場した堀口は、一回戦、準決勝を順調に勝ち上がり、決勝戦を迎えることとなります。
決勝の相手は、同門の中村金雄。日本ボクシング界の黎明期における名選手で、過去に日本バンタム級王座を獲得しています。その後はアメリカへ遠征へ行き、キャリアを積んだ当代のノックアウト・アーティスト。
そのノックアウト・アーティストに挑む人間機関車「ピストン」堀口恒男。
26歳という中村と、19歳の堀口。フェザー級のウェイトで激突。
堀口はピストン戦法、防御を無視して前に出る。そして迎え撃つ中村。若くフレッシュな堀口は、自身の打たれ強さとスタミナを武器に、初回からラッシュを仕掛けます。その乱打と真っ向から打ち合った中村でしたが、2Rに撃沈。
そして敗れた中村は、この試合を最後に引退。若い世代に夢を託すこととなりました。
プロボクサーとしてデビューしてわずか数戦、たった2ヶ月で既に日本ボクシング界のホープとなった堀口恒男。そしてまだまだ快進撃は続きます。
日仏対抗戦の第一戦は3試合が行われました。日本人選手が立て続けに敗れる中、堀口はピストン戦法で8Rに渡り手数を出し続け、ルール・ユーグ相手に見事判定勝利。ユーグはフランスの国内チャンピオンという肩書も持っていたようです。
この頃は非常に無茶なスケジュールで試合を組んでいたので、ユーグはその翌週にもリングに上り、日本人選手と対戦しています。フランス側のボクサーはたった3人で遠征に来ており、そこに代わる代わる日本人ボクサーが挑戦するような形だったようです。
日仏対抗戦の第4戦に、再度堀口が登場。相手は元世界王者。
相手はエミール・プラドネル。元世界フライ級王者、現欧州バンタム級王者という肩書。そのプラドネル相手にも勿論一歩もひかずに打ち合ったという堀口。
8Rを闘いきり、結果は引き分けに終わります。
勝利こそなりませんでしたが、プラドネルは堀口戦後の5戦目も引き分けて3勝(3KO)2分。1〜3戦目を圧倒的なKOで片付け、4戦目の堀口戦で力を使い果たした結果、最終戦がドローだったと考えるのが妥当な気がします。
元世界王者、プラドネルと引き分けた堀口、国民の期待とともに人気も爆発します。
尚、最終戦でプラドネルと引き分けた橋本淑(帝拳)と次戦で闘った堀口は、橋本を5RでKOしています。
その年(1933)の11月にはフィリピンの世界的強豪、ヤング・トミーを招聘し8R引き分け。翌年(1934)の5月、再戦で勝利。(トミーの反則負け)
ボクシング界に彗星のごとく現れた、「ピストン」堀口は、プロデビューからたった1年で世界的強豪と互角以上に渡り合える実力、またそれにともなった人気を手に入れていました。
同年11月、堀口の人気が、日本におけるボクシング人気に火をつけ、第一回全日本選手権の決定戦が行われることとなります。この大会は、各階級1人のチャンピオンを制定しようという試みです。
試合日程は11/5から12/26までという日程。当時としては当たり前だったかもしれませんが、恐ろしいスケジュールです。
そして堀口も、11/30に初戦を終え、12/11に二回戦、12/20に準決勝という連戦。
12/20の準決勝では、橋本淑と再戦、判定勝ちを収めます。
しかし、しっかりと堀口対策を練ってきた橋本に対し、苦戦、堀口は5針を縫う怪我を負ったそうです。その6日後に決勝戦。とんでもない事です。
決勝戦は、小池実勝(大日拳)。小池も実は、肋骨を痛めていたそうです。
満身創痍の両者、勿論開催は危ぶまれます。両陣営ともに、この決勝戦を出場辞退との報。
この興行の目玉である堀口vs小池戦がなくなってしまっては、興行自体も開催不可能となってしまいます。ここで全日本拳闘連盟は、堀口に頭を下げ、出場を懇願します。
なんとか堀口が出場すれば、その人気により相手が誰であろうとも興行は成功する、という目測。
ここで堀口は、主催者側にとんでもない条件をつきつけます。その条件とは、
たとえどんなに出血しようとも、ドクターストップをかけない
ということだったのです。
両まぶたの裂傷は当然試合までには治らない。出血するのは仕方ないにしても、負ける事はできない、そんな意思表示。現代のボクシングでは考えられません。
その条件を飲んだ連盟側と、傷をおして出てくる堀口に負けていられないと前言撤回し出場を決めた小池陣営。
かくして「血の十回戦」と呼ばれる死闘がはじまります。
「ピストン」堀口恒男 対 「タイガー」小池実勝
初回のゴングと同時に前に出る堀口、サイドステップから左右のスイングを叩き込もうとする小池。1Rから古傷、というには新しすぎる堀口のまぶたの傷は流血。
以降、堀口は「血のカーテン」とともに最終ラウンドのゴングを聞くことになります。
堀口の返り血を浴び、真紅に染まるリング。レフェリーも、小池にもその鮮血は降りかかる。
後半に入ると、血を見にきたはずの観客も中止を叫ぶ。
両目が塞がれてしまった堀口は、まだ前進につぐ前進。
そしてついには10ラウンドを戦い抜き、結果、堀口の手が上がります。
堀口は、見事無敗のまま日本一の称号を手にします。
初回から両まぶたの出血という窮地にあって、己に打ち勝ち、決して諦めなかった堀口。この不撓不屈の精神こそが、堀口の強さといっても過言ではありません。
この頃の日本は、国際連盟を脱退し、満州事変以来、以後の戦争への最終コーナーを曲がっています。非常に不安定な世界の中で、ひとりの拳闘家として信念を貫き、必死に生きる「ピストン」堀口恒男。その男の生きざまは、更に苛烈さを極めていきます。
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