畑山隆則のキャリアを振り返っているブログです。(第3回)
1998年9月5日、WBA世界スーパーフェザー級王者、崔龍洙を2-0の僅差判定で破り、見事世界初戴冠を果たした畑山。ここまでの畑山の戦績は23戦22勝(17KO)1分無敗という素晴らしいもので、華があり、魂溢れるファイトスタイルから日本ボクシング界を担うスーパースターの誕生を予感させるものでした。
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この階級では、1981年4月に上原康恒(協栄)がタイトルを失ってから17年半ぶりの日本人による戴冠。そして畑山が戴冠した1ヶ月後の10月3日には、WBCの王座がヘナロ・エルナンデス(アメリカ)から当時プリティボーイと言われていたフロイド・メイウェザーJr(アメリカ)へ渡ることとなります。このタイトルはメイウェザーが2001年まで保持しますので、近くの韓国にタイトルがあったことを考えると、やはり世界タイトルを獲得するには運も必要な要素だとわかります。
畑山チャンプの初防衛戦の相手は、ソウル・デュラン(メキシコ)。WBAスーパーフェザー級14位という下位ランカーで、まずは獲得よりも難しいとされる初防衛戦で、無難な相手を選んだともいえます。
デュランは当時30戦27勝(22KO)3敗という好戦績、KO率も高く、今思えば危険な相手ともとれます。ただ当時の私は、相手は下位ランカーということで畑山の勝利を信じ切っていたため、安パイな相手と思っていました。
ちなみに当時は、1998年の12月、世界王者だった飯田覚士(緑)、辰吉丈一郎(大阪帝拳)が続けざまに敗れ、畑山の持つタイトルは、日本にとって唯一の世界タイトルとなっていました。
1999年2月13日、初防衛戦。
この防衛戦は、畑山の出来は良くありませんでした。序盤からデュランの速いテンポに飲み込まれ、2Rにはダウンを奪われます。ダメージはありませんでしたが、畑山は焦ってしまったのか強引さが際立ち、5Rまでほとんどのラウンドをデュランに与えてしまいます。
ようやく6R以降に持ち直し、デュランの動きも鈍くなってきたところで、デュランはホールディング(10R)、ローブロー(11R)と続けざまに減点、これが響きデュランはタイトルを逃す事になりました。
畑山隆則、苦闘の1-1引き分け防衛。
非常に厳しい闘いでした。世界戦というのは本当に甘くない。内容的には正直に言うと負けていたと取られても仕方のない内容でもありました。
そして2度目の防衛戦は、その4ヶ月後、6月27日にセットされました。
相手は1位の指名挑戦者、ラクバ・シン(モンゴル)。
豊富なアマチュア経験を背に、6戦目(5戦全勝4KO)で当時の世界王者、崔龍洙(韓国)に挑戦するも1-2の僅差判定で敗北。再起戦で引き分けがありますが、その後は5連続KOで世界ランクを上げ、畑山挑戦にこぎつけました。
当時の戦績は10勝(9KO)1敗1分。またまたとんでもないハードパンチャーです。
私の当時の印象としては、「モンゴル」という(ボクシングでは)聞いたことのないお国柄、そして畑山が勝った崔龍洙に負けている。勿論ボクシングに三段論法は通用しないことはわかっていましたが、たとえ1位の指名挑戦者とはいえども畑山が勝ってくれるだろう、と思っていました。当時はラクバ・シンがアマチュアキャリア150戦以上とは知らなかった(情報はあったと思いますが、当時の私は完全にスルーしていました)ので、キャリアの差もあるだろう、とも思っていました。
開始早々、ラクバが仕掛けます。畑山はラクバの強打を警戒してか、ジャブをつきながらサークリング。両者ともにキビキビとした動きで、互角の1R。
2Rも畑山は打って動くを徹底。しかしラクバの右は非常に迫力があり、硬そうです。
3R、畑山は右クロスでラクバをぐらつかせます。その後はラッシュを仕掛け、攻勢を印象づけます。しかしフィジカルの強いラクバに対し、接近してパンチを打っていくのは得策とはいえません。今見るとラクバは上体の動きもいいですね。
4R、ラクバのボディ、ジャブにあわせた右アッパー。そして右クロス。軽いパンチも織り交ぜながら、重厚な攻めが目立ち始めます。
ここまではまだ互角の展開といってもよかったのですが、次の5R、恐怖の一撃が待ち構えていました。
実際、3Rの後半くらいから畑山のジャブの打ち終わりに合わせる右のタイミングがあってきていたのだと思います。1分過ぎ、畑山のジャブの打ち終わりのワンツーで畑山が痛烈なダウン!腰からくだけおちら強烈なダウンでした。
畑山はそのダウンから何とか立ち上がり、ラクバは猛攻をしかけます。それでも倒れない畑山。現在であればあのダウンで既に試合は終了となっていますが、この試合、レフェリーがなかなか止めず、ラクバの連打にさらされる畑山。
↓畑山vsラクバ。痛烈なKO負けでした。
早く止めろ、と心の中で何度も思った記憶は今でも鮮明に覚えています。
大事に至らずによかったとは思いますが、本当に危険なシーン。
衝撃的な敗北を喫してしまった畑山。その畑山を完膚なきまでに叩きのめしたラクバは、ものすごく強く見え、長期防衛を築くだろうと思いましたが、次戦で不可解な判定で敗れてしまいます。それも衝撃的でした。
この翌月、畑山は引退を表明。非常にもったいない才能ではありましたが、当時のボクシング界では世界王座を陥落したら即引退が当たり前の時代でもありました。
しかも痛烈なKO負けを喫した畑山が引退することに関しては、残念だという思いもありましたがどこかで納得もしていました。
畑山の再起。セラノと坂本。
しかしやはり、どこかでくすぶっていたのでしょう。
畑山は、年が開けた2000年、引退を撤回。その復帰理由は、当時ライト級の世界ランカーでもあり、人気、実力とも兼ね備えたボクサーであった坂本博之(角海老宝石)と対戦するためと本人が語っています。
但し、デビュー以来コンビを組んできた柳和龍トレーナーは畑山引退とともに既に移籍。
畑山はアメリカへ渡り、ルディ・エルナンデスを新しく陣営に招き入れました。
そして畑山がアメリカでトレーニングしていた頃、所属ジムから畑山に復帰戦の連絡が入ったそうです。
その復帰戦の相手は、WBA世界ライト級王者、ヒルベルト・セラノ(ベネズエラ)。復帰戦で即、世界王座への挑戦。
セラノは1998年4月、スーパーフェザー級時代に崔龍洙に挑んで敗北しています。つまりは崔の7度目の防衛戦の相手でした。(8度目の防衛戦の相手が畑山)
その後、1999年11月にライト級での世界挑戦を実らせ、初戴冠。2000年3月12日に来日、初防衛戦で坂本博之の挑戦を受けました。
平成のKOキング、坂本博之は非常にドラマ性のある、記憶に残るボクサー。語り尽くせぬほどの苦労を背負い、リングの上で自身を表現してきた求道者のようなボクサーです。その坂本の3度目となる世界挑戦。最初は僅差判定負け、2度目は大差判定負け。
ハードパンチを前面に押しだしたそのファイトスタイルは、正に坂本の生き様そのもの。以前、坂本博之会長の主催するSRSジムへ伺い、指導を乞うた事があります。
その際、坂本流左フックの打ち方を教わりました。
「親友や、懐かしい友達に会った時に、抱きつくでしょう。抱擁をするかのように打つのが左フック」
大きく弧を描き、対戦者をバタバタとなぎ倒してきた左フックは、抱擁の左フックでした。非常に坂本会長らしい教え方だな、と妙に感心した次第です。
さて、話がそれましたがセラノvs坂本戦は、1Rから坂本がセラノに2度のダウンを与え、優位に試合を進めていました。KO奪取の期待が高まる中でしたが、セラノは非常にスキルフル、しかも回復も早い。対して坂本は、それまでの歴戦のダメージから、以前から言われていた事ですが非常に顔が腫れやすい。
2R序盤、セラノの左アッパーで坂本の右目がふさがり、出血。
結局はその傷がもととなり、坂本は5RTKOで敗北を喫してしまいました。
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その坂本をストップした王者に、挑む事になった畑山。
当時の世間的な予想は覚えていませんが、私個人としては畑山が負けるとはあまり思っていませんでした。
坂本戦でみせたセラノの脆さ、畑山とやや似たタイプである崔龍洙にKO負けを喫していること。更に、ラクバ・シン戦から1年が経過したことで、ブランクはありながらも畑山のダメージは完全に抜けているだろうということ。
逆に不安要素としては、セラノがストレートパンチャーであること。(ラクバ・シン、ソウル・デュランから奪われたダウンはともにストレート)
しかし畑山はまだ若く、クレバーで対策もしっかり立てられる事から、セラノはやはりおいしい「チーズ」チャンピオンだと思っていました。
2000年6月11日、畑山は復帰戦でWBAライト級王座へ挑戦。
1R開始のゴングが鳴り、畑山はいつも通りのファイタースタイル。非常に動きはキレています。そしてこの1R目からワンツーをヒット、その後ラッシュをしかけ、会場は大きく盛り上がります。セラノは良くも悪くも前回と同じ印象。パワーはあまり感じないまでも、そのパンチは硬質で、リードは非常に巧み。
2R、セラノのジャブや左アッパーが大きく機能しはじめ、クリーンヒットを奪います。畑山は距離を詰めてフック、アッパーの乱打。畑山の方が体全体にパワーを感じますが、ヒット数はセラノ。
3Rはセラノが左に加えてノーモーションの右を多用してきます。20年前に観た時はもっと畑山の圧勝のイメージが強かったのですが、今観るとセラノの左は非常に上手いですね。もともと技術のあるセラノにもっとスタミナとフィジカル、ハートがあったら結構やばかったかもしれません。
4Rも畑山が詰めて連打をする場面もありますが、セラノがストレートの距離で釘付けにする場面もあります。このラウンド後半あたりから、セラノの動きがやや緩慢に。
5Rに入ると畑山は思い出したかのように大きく身体を振り、右フック、左フックをヒット、そして右アッパーでダウンを奪います。時間はまだ30秒ほどしか経っていません。立ち上がったセラノに猛攻を仕掛ける畑山。セラノは回復が早く、クリンチワークも上手い。なかなか仕留めきれない畑山ですが、このラウンド終始攻め続けました。
そして7R、ラウンドの半分が過ぎた頃、畑山の右でセラノがダウン。セラノはかなり疲れています。
8R、畑山の猛攻に耐えられなくなったセラノは3度のダウンを喫し、WBAルールである3ノックダウンが適用され、畑山のTKO勝利!
畑山はスタミナがすごいですね。ブランクも1年程で済んだことで試合勘も鈍っていなかったでしょうし、相性も良かった。
畑山隆則、8RTKO勝利で2階級制覇!
↓セラノvs畑山はこちら
そして、ここで「次は坂本選手とやります!」と宣言し、あの伝説の10.11へ進んでいく事になります。既に畑山が勝てば、次は坂本戦だろうという噂はありますが、ここであえて宣言するというのは本当に畑山は観客が求める事がわかっています。
だからこそ、あの試合も大いに盛り上がりましたし、畑山も大きな人気、そしてそれに付随して富を手に入れたのでしょう。
実力、運、といったボクサーに必要なものだけでなく、セルフプロデュース力も兼ね備えた不世出のボクサー、畑山隆則。
次回はあの伝説の試合、そしてその後の引退までを書いていきます。
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最近話題になっている畑山vs内山のスパーリング動画。
内山高志について書いたブログもありますので、よろしければどうぞ。