畑山隆則のキャリアを振り返っているブログです。(第4回)
1999年6月27日、モンゴルからの刺客、ラクバ・シンに痛烈なKO敗けを喫し、引退を宣言した畑山でしたが、翌年にそれを撤回。
2000年6月11日、1年ぶりの復帰戦のリングでWBA世界ライト級王者、ヒルベルト・セラノ(ベネズエラ)に挑戦、見事8RTKO勝利を納め、2階級制覇。勝利者インタビューで「次は坂本選手とやります」と宣言しました。
日本中のボクシングファンも歓喜にわき、おそらくラストチャンスになるであろう坂本博之(角海老宝石)にとっても喜ばしいことだったとは思います。
↓前回のブログです。
ちなみに補足をしておくと、世界ライト級王座を射止めた日本人は、ここまでガッツ石松(ヨネクラ)ただ一人でした。(日本ジム所属選手としてはオルズベック・ナザロフ(協栄)、ホルヘ・リナレス(帝拳)も)
現在(2020年)までと考えても、他に小堀佑介(角海老宝石)がいるだけで、世界的にみて軽量級屈指の人気階級はであるライト級は日本人にとっても非常に壁が高い階級でもあります。
↓現在のライト級もそうそうたる顔ぶれで盛り上がっています。
↓王者だけでなく、トップボクサーたちもそうそうたるメンバー。
2000年10月11日 WBA世界ライト級タイトルマッチ
畑山隆則vs坂本博之
↓情熱大陸「史上最高のタイマン」VTR
試合前、畑山が言った「彼(坂本)は自分の顎に自信を持ってる。僕は顎に自信がない。彼はパンチがあるんです。僕は彼ほどパンチがない。だから僕が勝つんです。」ということば。
その言葉の真意は、打たれつつも打つというスタイルの坂本と、打たせずに打つという畑山のスタイルの違い、パワー偏重な坂本と、世間でハードパンチと言われている程ではない自分のパンチの特性をよく理解して分析した言葉でした。顎に自信がない=坂本のパンチで倒されるかもしれない、と思った畑山は、徹底して相手の左フックをまともに食わないようにガードに気をつけました。一発のパンチングパワーで劣る部分は、連打、コンビネーションでカバーする。そのためにコンパクトにパンチを打ちました。
なぎ倒すようなパワー系パンチャーの坂本に対し、畑山はスピードとキレで倒す、瞬発系のパンチャー。一発の破壊力は坂本に譲っても、スピードと回転力は畑山。そして内側からパンチを出せる畑山の方が、ボクシングとしては有利だろうと個人的には思っていました。
ちなみに、私は坂本博之を応援すると決めていました。坂本のその生い立ち、不屈の闘志、パンチングパワーと決して退かないボクシングに惹かれ、これまでもずっと応援してきました。
ライト級の世界王者になってくれるだろう、そう思っていた坂本博之は、1997年にスティーブ・ジョンストン、1998年にセサール・バサン、2000年にヒルベルト・セラノに敗れ、もう4度目の世界挑戦。
既にこの頃の坂本は、全盛期のその姿ではありませんでした。おそらく減量にも苦しんでいたのでしょう、顔は腫れやすく、激闘の代償として目上のカットをし易い。追い足も若干衰えているようにも見えました。
対する畑山は、前戦のセラノ戦は出色の出来であり、スーパーフェザー級時代の防衛戦よりも更に1段階強くなっていると感じるものでした。
応援する選手の負けを覚悟しながらも、奇跡が起こるのを信じる。これは、あの時の感覚に似ていました。1997年、辰吉丈一郎がシリモンコンとやった時の感覚と。
ちなみに畑山と坂本は、坂本が日本王者時代に1度、両者がOPBF王者だった時に1度、そして畑山の世界挑戦前に1度の合計3度、スパーリングをしているそうです。その3度目のスパーリングでは畑山は坂本を圧倒し、試合ではいけると感じていたそうです。勿論スパーリングと試合は別物。しかし攻略方法は既に見つけていたのですね。
↓畑山vs坂本フルファイト
さてゴング、1Rから両者近い距離でパンチを出し合う激しい展開。坂本は左を下げるデトロイトスタイル。これが畑山の右ストレートを喰う原因になったのだと思います。早くも左目上をカット。
しかし初回は近い距離で打ち合い、坂本のボディが効果的に畑山を捉えます。
畑山陣営からは距離をとれ、出入りしろという指示だったそうでしたが、畑山は「頭に血が昇って」打ち合いに行ってしまったとのこと。
このラウンド終了後、バチバチの打ち合いばかりではマズい、と考えた畑山は冷静さを取り戻し、その後のラウンドはスピードをいかした出入り、コンパクトなショートパンチのコンビネーションを武器に試合を優位にすすめていきます。
坂本はピーカブースタイルで身体を振って、という闘い方の方が良いと思うのですが、この時は左のガードを上げるのは接近した時くらいしかなかったです。ですので中間距離から踏み込んできた右ストレートをもらってしまい、それが敗因の一つだと今でも思っています。
坂本も上体の動きを含めてコンディションは悪くなかったとは思うのですが、いかんせんガードができません。おそらく左フックをリラックスした状態から強く打てるようにデトロイトスタイルなのかもしれませんが、畑山のコンパクトなパンチは、ガードの隙間を縫って坂本に着弾します。坂本も迫力あるパンチを振るいますが、振りが大きいのと、序盤にあったスピードは徐々に衰えていきます。
4Rに坂本の左目上の傷をドクターがチェック。5Rに入る頃には坂本は目に見えてスピードが落ち、このラウンドは完全に畑山ペース。
この5Rころには、畑山は勝利を確信したとか。
6R以降、畑山は脚を使う時間、攻勢に出る時間を分け、コンパクトなパンチを坂本に浴びせます。もともと振りが大きい坂本のパンチ、徐々にスピードがなくなってきたことでかわしやすくなっているのかもしれません。
実況のアナウンサーが、「畑山が打たれ強い」と言っています。坂本のパンチも畑山に入ってはいますが、そのほとんどはジャブか、左右のボディ。坂本得意の巻き込むような左フックのクリーンヒットはほぼありません。
8R終盤、畑山が坂本を効かせ、ロープに釘付けにする場面を演出。
9R、坂本はもう畑山のジャブが見えていません。坂本がフックを振るうのは、既に気力だけなのかもしれません。このラウンド、坂本は左の耳から出血。度々畑山の右ストレートを浴び続けてしまった結果です。既に身体の限界を迎えているであろう坂本博之は、その限界を超えて心だけでそれでも前進。なんど見てもこのラウンドは本当に感動してしまいます。
10R、その坂本の思いを真っ向から受けていた畑山、このラウンド早々に左フックから右ストレートをヒット。手応えはなく、スコーンと入ったという最後の右ストレートは、畑山のキャリア最高のショットでしょう。
まさにスローモーションのように倒れた坂本博之をみて、レフェリーは即ストップ。
ここにこの激戦は幕を閉じました。
↓本人がこの1戦について語った動画
エピローグ
その後の畑山は、2001年2月17日にリック吉村(石川)戦で敗けに等しいとも言われた引分け判定で生き残りましたが、2001年7月1日ジュリアン・ロルシー(フランス)戦で判定負け。
2002年に正式に引退を表明。
坂本戦後の畑山は、モチベーション不足。動きが悪いとか、練習不足とかそういうものではなく、もともとの復帰理由を最高の形で成し遂げた今、ボクサーとしては燃え尽きてしまっていたのでしょう。リック戦も、ロルシー戦も、どちらも今見ても面白い試合であり、凡戦とか、ふがいない試合というものではないということは明らかです。
ただ、やはり坂本戦の輝きとは違います。
それは畑山が大きく輝いたように見えた坂本戦と比べると、リック戦、ロルシー戦の輝きは見ている側からみても霞んでしまうのかもしれません。
推測の域を出ませんが、坂本戦で一気に評価を高めた後、リック戦、ロルシー戦はファイトマネーのために闘っただけにすぎないのかもしれません。当時は王者のまま引退なんていうのは考えられなかったので、負けるまで闘い、負けたら辞める、というのが常道。これまでも多くの王者は、モチベーションをなくし、負けていったと記憶しています。
かといって、リック戦やロルシー戦が晩節を汚したのか、というとそうではありません。リック吉村という不運のボクサーの世界挑戦、そして王者として敗北し、次のボクサーにバトンを渡す役割、できる事はやりきって引退したというボクサーでもありました。
そのセンス溢れるボクシングで、ファンを魅了し、日本中を熱狂させた畑山隆則。そして多くの人にボクシングの素晴らしさを伝え、2000年前後にボクシングを始めた全ての人の憧れとなり、結果ボクシング界に大きく貢献した畑山隆則。
現在はボクシングジム経営のほか、Youtuberとしての活躍も顕著であり、やはり非凡で華があります。最近では内山高志とのスパーリング対決も話題となり、まだまだ元気な姿を我々の前に見せてくれていることは、非常に嬉しい事ですね。
これからも益々の活躍を期待しています。
↓内山高志のキャリアを振り返ったブログです。