信太のボクシングカフェ

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ボクシングが大好きです。大好きなボクシングをたくさんの人に見てもらいたくて、その楽しさを伝えていきたいと思います。

今あらためて、過去と未来の東京オリンピックを想う。

※当ブログでは商品・サービスのリンク先にプロモーションを含みます。ご了承ください。

本来であれば、今年の7/24から東京オリンピックが開始され、(ボクシング競技は7/25-8/9)ボクシングも今は予選の真っ只中だったはずです。

コロナ禍により開催が来年に持ち越されましたが、実際は来年開催できるのかも不透明。

このブログを始めた頃、当然オリンピックが開催されるものと思い張り切ってオリンピック代表候補の記事を書きました。

 

↓あくまでも2020年1月時点のブログ 

boxingcafe.hatenablog.com

そしてその後、中国の武漢で新型ウィルスが発生したというニュース。しかしまだその頃は対岸の火事。武漢での開催は延期となりました。

しかしその予選は場所を変え、開催されることに。コロナが日本も含めて世界中で猛威をふるう直前、ヨルダンの首都アンマンでアジア・オセアニア予選が行われました。 

そのアジア・オセアニア予選で、男子選手としては

田中亮明(フライ級)

堤駿斗(フェザー級)

成松大介(ライト級)

岡澤セオン(ウェルター級)

森脇唯人(ミドル級)

梅村錬(ライトヘビー級) 

が日本代表として出場。

そして女子選手としては

並木月海(フライ級)

入江聖奈(フェザー級)

濱本紗也(ライト級)

鬼頭茉衣(ウェルター級)

津端ありさ(ミドル級) 

が出場しました。

 

↓オリンピック予選はWebで見れたので、追いかけていました。

boxingcafe.hatenablog.com

そこで男子では岡澤セオン、女子では並木月海と入江聖奈が自力でオリンピック出場権を獲得。

その後発表された開催国枠での出場を決めたのが、田中亮明、成松大介、森脇唯人

いつか開催される最終予選で、男子では堤駿斗、梅村錬、女子では濱本紗也、鬼頭茉衣、津端ありさは自力で出場権を獲得しなければなりません。

最終予選は世界各国から集まってくるので、険しい道程となりますが、全員が出場枠を獲得できることを期待しています。

と、まあ未来の話をしてみましたが、今回のブログは過去の東京オリンピックを掘り下げて行きたいと思います。

1964年、東京オリンピック

今からおよそ56年前、1964年、当時の開催時期は10月。東京でオリンピックが開催されました。

この当時はボクシングは男子のみの競技で、全部で10階級での開催。現在の8階級(オリンピックでは)よりも2階級多く、フライ級とフェザー級の間にバンタム級が、ライト級とウェルター級の間にライトウェルター級が入っています。

そしてスーパーヘビー級という階級はなく、ウェルター級とミドル級の間にライトミドル級という階級があります。

 

当時の日本代表と結果

フライ級(〜51kg) 吉野洲太 2回戦敗退

バンタム級(〜54kg) 桜井孝雄 金メダル

フェザー級(〜57kg) 高山将孝 2回戦敗退

ライト級 白鳥金丸(〜60kg) 3回戦敗退

ライトウェルター級(〜63.5kg) 米倉宝二 3回戦敗退

ウェルター級(〜67kg) 浜田吉治郎 準々決勝敗退

ライトミドル級(〜71kg) 益田弘二 2回戦敗退

ミドル級(〜75kg) 天間一 1回戦敗退

ライトヘビー級(〜81kg) 代表不在

ヘビー級(81kg〜) 丸山忠行 1回戦敗退

さて、見覚えのある選手もちらほら。

バンタム級の桜井孝雄は、日本人ではじめてこのボクシング競技において金メダルを獲得したボクサー。オリンピック当初は期待されてはおらず、しかしつまりは番狂わせの連続で見事金メダルを奪取。しかも決勝は2ラウンドRSC(レフェリーストップコンテスト=プロでいうTKO)での圧勝。

東京オリンピックでの金メダルを手土産に、鳴り物入りでプロデビューします。しかし、もしかすると本人はプロ志望ではなかったのかもしれません。

当時はファイティング原田が隆盛を誇っていた次代。その原田からタイトルを奪ったライオネル・ローズ(オーストラリア)に挑戦のチャンスが訪れます。

そのローズから2Rにダウンを奪うも、その後ポイントを奪い返しにくるローズに対し、消極策をとってしまい結果僅差の判定負け。

 

再起後、OFB東洋バンタム級王者となり、2度の防衛後返上して引退。

プロにいっても徹底してアマスタイルを崩さなかったボクサーだったようです。

そして、フェザー級の高山将孝。

プロ転向後、日本ライト級王者となり、5度の防衛。その防衛戦の中には、鈴木石松(のちのガッツ石松)と引き分け防衛の試合も含まれます。

6度目の防衛戦でバズソー山辺に判定で敗れ、陥落しますが再戦でKO勝利で雪辱。その王座を1度防衛し、当時間違いなく世界最強のライト級王者だった、ロベルト・デュランへ挑戦します。

そのデュランに1RKOで敗れた後、保持する日本タイトルの防衛戦を1度こなし、グローブを吊るしました。

ウェルター級の浜田吉治郎は、あと一つ勝っていればメダルに届いたのですね。

世界的強豪が昔から多いと思われるウェルター級で素晴らしい実績だと思います。引退後、母校である近畿大学でコーチ、監督を歴任、教え子には赤井英和や名城信男といった名ボクサーがいます。

当時のオリンピック出場基準がどうだったのか、知りませんが、10階級中9階級で選手を送り出す、というのは凄い事ですね。

地元開催というのは、声援もあいまって日本人ボクサーにとっては力を発揮し易い環境だったのではないでしょうか。ダークホース、桜井の金メダル、というのはまさに何かそういった本人の実力以上の力が発揮された、といっても過言ではない気がします。

 

そして忘れてはならないのが

この1964東京オリンピック、ヘビー級で金メダルをとったのはジョー・フレージャー

あのモハメド・アリと死闘を繰り広げた、「スモーキン」ジョー・フレージャー。

しかも、代役出場だったようです。

フレージャーは貧しい農家の家に生まれ、学校にも行けず、16歳で結婚。金を稼ぐためにまずはアマチュアボクシングをはじめ、すぐに頭角を現します。

東京オリンピックの選考会まで進みますが、決勝でバスター・マシスに破れ、一旦は出場を逃します。その後マシスが怪我をし、フレージャーに出番が回ってきたそうです。

そんな二人がNYACのヘビー級王座をかけて後々に争う事になるのですが、そこではフレージャーが勝ち、マシスには結果的にスポットライトが大きく当たることがありませんでした。

さて、金メダルを手土産にプロ入りしたフレージャー、モハメド・アリ不在の中無類の強さを発揮し、世界王座を防衛。そして復帰してきたアリに初めて黒星をつけます。

その次戦でジョージ・フォアマンに王座を明け渡し、アリとの再戦、ラバーマッチ、フォアマンとの再戦で敗れ、生涯戦績は37戦32勝(27KO)4敗1分というもの。

見事アメリカン・ドリームを掴み取ったともいえるフレージャー、その夢のはじまりは東京だったともいえます。

ちなみに、1960年のローマオリンピックのライトヘビー級金メダリストがカシアス・クレイ(のちのモハメド・アリ)で、1964年の東京がフレージャー、そして1968年のメキシコシティーオリンピックの金メダリストはジョージ・フォアマン。

この3者のライバル対決は、全てゴールドメダリスト対決でもあったようです。

 

オリンピックの楽しみ方は

他の競技同様、ボクシングにおいてもオリンピックは最高峰の闘いです。オリンピックで金メダリストになるには、プロで世界王者となるよりも難しい、とも言われます。

そのアマチュアボクシングそのものを楽しむ見方もできる他、その後、プロで活躍するボクサーもきっといるでしょう。そういった選手を見つける楽しみもありますね。

金メダリストだからといって、プロで活躍できるとは限りません。オリンピックに出られなかったから、もしくは1回戦で負けたからといってプロで活躍できないとも限りません。

勿論今回のオリンピックを糧として、次回のオリンピックでも楽しませてくれる選手が出て来るかもしれません。

いろいろな可能性を秘めた、オリンピックのボクシング競技。プロとアマの境目がきっちりしているからこその楽しみ方とも言えます。(今はプロ選手も出る事はできますが、競技の性質上あまり現実的ではありません。)

来年の東京オリンピックを楽しみにして、(チケットは返金処理をせず)待ちたいとおもいます。 

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