信太のボクシングカフェ

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ボクシングが大好きです。大好きなボクシングをたくさんの人に見てもらいたくて、その楽しさを伝えていきたいと思います。

井上尚弥、日本プロスポーツ大賞を受賞。日本プロスポーツ大賞というものを受賞した、歴代ボクサーを調べた。

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井上尚弥が日本プロスポーツ大賞を受賞!

これは素晴らしいことで、「日本プロスポーツ大賞」という名称は幾度か聞いたことがありますが、なんだったかなぁ、と思って調べてみました。

Wikipediaによると、

マスコミ各社の運動部長、もしくはそれに準ずる役職の人間が選考委員となり、総数54の1回答票で選定する。

とあります。

この日本プロスポーツ大賞は、公益財団法人日本プロスポーツ協会が制定する賞で、大賞、殊勲賞、特別賞、最高新人賞、功労賞というカテゴリーがあり、この大賞に内閣総理大臣杯が贈られる、とのこと。

 

よく知りませんが、Wikipediaにはこうも書いてあります。

日本プロスポーツ協会の組織運営に問題があることを理由に日本野球機構、日本相撲協会が激怒して協会を脱会したことがきっかけで、2019年度より表彰が事実上中止となっていた。日本野球機構は2022年12月に再加盟しており、2022年度は4年ぶりの実施された。

「4年ぶりの実施された」という日本語は明らかにおかしいですが、原文のママ。(2023年3月2日21:30現在)

ということで、この日本プロスポーツ大賞を受賞したボクサーたちについて。

https://www.sanspo.com/article/20230302-4LK5CGHNBFLVHJEQYNJSA73CBU/

 

 

1968年(第1回)大賞

西城正三

まず、驚くべき事に、この第一回日本プロスポーツ大賞を受賞したのは「シンデレラボーイ」西城正三。

この1968年という年は、うだつの上がらないボクサーだった西城がロサンゼルスへ行き、世界ランカーに勝利、更には当時の世界王者ラウル・ロハスにノンタイトル戦で勝利して世界戦のチャンスを掴み、世界初挑戦を叶えます。

その大一番でラウル・ロハスに勝利した西城は、WBA世界スーパーフェザー級王座を戴冠、見事世界王者となりました。

西城正三というボクサーは、アメリカで始めて世界タイトルを獲ってきたボクサー。

この頃、現在のようにメジャー団体は4団体もなく、もともとNBAと呼ばれていたWBA、そこから分裂したばかりのWBCのみ。

この当時の熱狂ぶりが偲ばれますね。

 

1979年(第12回)大賞

1980年(第13回)大賞

具志堅用高

そこから10数年、2年連続で受賞しているのが具志堅用高。

ボクシングの国際殿堂入りを果たしているカンムリワシは、1979年に4度、1980年に3度の防衛に成功しています。

1979年の最初の防衛戦(1月)が7度目の防衛戦であり、ここまでの日本人世界王者による防衛記録を更新。ここまでで小林弘、輪島功一のたてていた世界王座6度防衛という記録を塗り替えた1979年、その記録を更に更新していった1980年、具志堅用高は日本のプロスポーツ界の頂点に君臨し続けたわけですね。

「具志堅が負けるわけがない」という位、日本中の期待を背負っていたであろう具志堅ですが、1981年3月の試合でとうとう王座陥落。

歴戦の疲れもあったのでしょう。

2023年現在においても、この13度の連続防衛記録が破られていないというのはものすごい事で、もうすぐ半世紀が経ってしまいます。

1つの階級にとどまる事は、肉体的にも疲労し、今と違って王者が少ないあの時期は、きっと精神的な疲労も相当なものだったに違いありません。

 

1991年(第24回)

辰吉丈一郎

そしてその具志堅の受賞から10年と少し、ここではなんと辰吉丈一郎も受賞していました。

岡山の一介の不良が総理大臣杯。。。なんだか感慨深いものがありますし、やはりボクシングというのは非常にロマンがありますね。

1991年は当時疑惑の判定とも言われたアブラハム・トーレス戦、レイ・パショネス戦、そしてWBC世界バンタム級タイトルマッチ、グレグ・リチャードソン戦。

このリチャードソン戦でタイトル初戴冠を果たした辰吉丈一郎、しかもこの賞が発表された頃はきっと網膜裂孔で休養中という状況だったと思います。

具志堅用高、そして井岡弘樹がわずか9戦目で世界奪取したときにはこの日本スポーツ大賞は受賞していませんが、8戦目で世界奪取した辰吉のもとには日本スポーツ大賞が訪れました。

他との兼ね合いもあるでしょうが、辰吉丈一郎がいかにセンセーショナルなボクサーだったか、ということを物語るようです。

 

2022年(第52回)

井上尚弥

そして辰吉丈一郎の日本スポーツ大賞受賞から実に30年以上のときを経て、この殊勲がようやくボクサーに送られる事になりました。

2019年〜2021年は実施されていないので、実に4年ぶりの開催となったこの授賞式に登壇したのは、我らがモンスター、井上尚弥。

2022年はノニト・ドネアを2RTKOで屠り、WBC世界バンタム級王座を獲得、そしてWBO同級王者、ポール・バトラーを一方的な試合で倒し切り、日本人で初、アジア人でも初となる4団体制覇という偉業を成し遂げました。

そして2023年、5月と言われているWBC・WBO世界スーパーバンタム級王者スティーブン・フルトンを倒し、更に「その次」という可能性のあるWBAスーパー・IBF世界スーパーバンタム級王者ムロジョン・アフマダリエフを倒す事ができたならば、2年連続の受賞も夢ではないかもしれません。

まさに、時代を象徴するアスリートです。

 

殊勲賞にも

おそらくこの日本スポーツ大賞の次点、となるであろう殊勲賞にも、これまで数々の名ボクサーたちが選出されていました。

1969年、1970年には小林弘、1971年、1972年には大場政夫、1973年に輪島功一、1974年には柴田国明、1975年にはガッツ石松、1976年〜1978年には具志堅用高とこの1970年代という時期は毎年のようにボクサーたちが殊勲賞、または大賞を受賞しているというゴールデンエイジ。

それだけ、ボクシングの人気も高かったのでしょう。

1980年代は、1984年に渡辺二郎、1986年に浜田剛史と二人だけとなり、ボクシング人気も少し陰りが見え始めます。

1994年の薬師寺保栄は辰吉戦が大いに話題に登ったからでしょうし、1997年の辰吉丈一郎の殊勲賞の受賞はシリモンコン戦での王座返り咲きが評価されてのものでしょう。いずれにしろ、この1990年代のボクシングは辰吉丈一郎を中心に回っていたと考えて良いですね。

2000年の畑山隆則、これは坂本博之戦で日本中の注目を集めた事が大きいはず。

その後は少し空く、というのは、畑山王座陥落後、少々ボクシング界にとって暗黒の時代が到来した、と見る事もできるのかもしれません。

この時期を引っ張ったエースにはこの賞は与えられませんでしたが、日本人ボクサーによる世界王座防衛記録にあと一歩と迫った山中慎介が2013年に殊勲賞を受賞。

 

そこから2017年に村田諒太、2018年に井上尚弥がこの殊勲賞を受賞しています。

井上尚弥の時代

是非とも井上尚弥には、これからも良いパフォーマンスを見せてもらい、この賞の常連になってほしいものですね。

大賞というのはよほどインパクトがないといけないかもしれませんが、殊勲賞は勝ち続けて国民の注目を集め続ける事ができれば可能かもしれません。

そして今、ボクシングという競技が注目されているこのときにこそ、後に続くボクサーが出てきてほしいものです。

ずっとボクシングを見続けている我々のようなボクシングファンは、その時代、その時代に素晴らしい戦いをみせてくれるボクサーたちがいた事を知っていますし、その時その時のステージでの楽しみ方があるということも知っています。

ただ、多くのボクシングファンが「ボクシング」という競技に触れたきっかけは、結局のところ「テレビでやっていた世界タイトルマッチ」というのが非常に多いのではないかと思います。

更に注目度の高まる井上尚弥の試合は、アマプラであろうともdTVであろうとも、多くの人の目に触れるはず。やはりこの機会を逃さず、この流れを断ち切らないよう、次のスターの誕生を待ちたいものですね。

 

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